●日出処の天子●
聖徳太子=厩戸王子が今でいう超能力者で、その力ゆえに悲しい(表向きには華やかな)生涯をおくる話----なんてあっさりまとめていいのか?(いや、そりゃマズいだろ)とりあえず、あらすじは抜き。感想だけいきます。
山岸凉子という作者はハッピーエンドにまったくこだわっていない作者だ。やろうと思えば、布都姫を長生きさせるとか、厩戸が刀自古に心を開くとかいくらでもできるのに。
若干ほのぼのしている調子麻呂の恋の相手が尼さんだってところまでぬかりなしだ。
このマンガから私が強く感じる一つが「愛せない哀しさ」だ。
とくに、すべての根元と指摘された穴穂部間人媛の哀しさがなんともぐっとくる。
自分の子供なのだから愛したいだろう。母親だから愛さなければ、という強迫観念みたいなものもあるだろう。でも、彼女は我が子が怖ろしいのだ。親子ゆえに、その恐怖には正当な言い訳が成立しない。その分、唯一厩戸を救える可能性を持ちながら理論武装して拒絶できた毛人より残酷な哀しさになるのではないだろうか?
そして私が感じるもう一つは「宿命=ダメなものはダメ」
この世界には「努力すれば」「才能があれば」「愛があれば」報われるという式は存在しない。むしろ、それらのものは肝心なところでは逆効果にすらなるシロモノなのだ。
が、「ダメだった」で終わるわけではない。厩戸は権力へ目をむけ、刀自古は夫以外の子をたくさん産む。一見むなしい代償行為であるが、人生なんてこんな連続なのではないか。「一番」を得ることは当然ではないし、得られなくても人生はちゃんと続いていくのだ。あとは受け止め方だな。
まあ、厩戸や刀自古はちょっと痛々しいが、額田部女王はそこのところ清々しい。愛息亡きあと、将来有望な厩戸に目をつけ、力を注ぐ額田部のなんとたくましいことか。彼女はたぶん、自分が好きだ。自分が好きだからこそ、前向きに生きられるのだろう。
厩戸に隠れてわかりにくいが、額田部は美貌も知恵も野望も自信も兼ね備えた力強い魅力的な女性なのだ。
と、やや真面目なことを書いたが、最後に好きなキャラについて。
ズバリ 淡水 です。
初心貫徹、厩戸一筋(調子麻呂との話は昔話なので無視)。厩戸のためには手段を選ばず、そして確実に役に立てるあなたが素敵(笑)私の好きなキャラはたいてい途中で死ぬのだが、死なないというだけでもありがたい。
●北斗の拳(マンガ)●
初めに言っておこう。北斗の拳、全巻読んでません。なぜなら、ラオウファンだから。
もし北斗の世界に行くならラオウの馬の世話係の使いの者でもいい、と思ったものだが、誰に言っても「コクオウに踏みつぶされて終わりじゃ」という言葉しか返ってこない。やむを得まい。
ラオウ(ついでにサウザー)の魅力と言えば、良くも悪くも一本筋が通っていること。そしてそれを維持しつつ目標へ向かう力があり、かつ力を使うことをためらわない----短縮すると強いところだろう。
こういう方々は現実にいるとかなり嫌だが、お話の中では燦然と輝く。
冷酷なまでに、自分の道を進んでいく漢(と書いてオトコと読ましとくか、ここは)がチラリと見せる人間性がたまらない。
お気に入りは、ラオウvsトキのところだ。
「お互いに大きくなった」などといいながら、いくらなんでも小さすぎる子供の頃の服をだしてくるラオウ。
トキの拳に「効かぬのだ〜〜!」と涙するラオウ。
とどめをささずに「体をいとえよ」とトキの前を去っていくラオウ。
ふぅ・・・素敵・・・と思いつつも、「ゆるゆる〜〜」というトキの拳に対するわけのわからない擬態語に笑ってたりして。
あ、擬態語といえば泣くところの「ブワッ」もしんみりした雰囲気を打ち消す効力がある。
ところでラオウファンの私にも、唯一の不満がある。
なんでユリアを好きなの?
この「男はみんなユリア」っていう構図やめてくれないかなー?というか、せめてラオウだけは別にしてほしかったよ。ユリアを好きじゃなくても、話は成立するし(たぶん)。 この部分だけ、ラオウが俗物に落ちている、と残念に思うのだ。
最後に、昔「ファンロード」に投稿されてたネタ、「トキの有情拳で気持ちよく死ぬ」というのが忘れられない。
●暗黒神話●
このマンガもマイナーだと思うが、まず作者の諸星大二郎自体が実はマイナーなのでは?
私とて諸星大二郎なんぞ知らなかった。諸星との出会いは中学3年の時。同じクラスになったFさんが「兄のマンガ」として貸してくれたのが始まりだった。以来、たぶんファンなんだと思う(消極的表現)
宇宙の歯車を動かす権利を持つアートマン。主人公のタケシは何も知らず望みもしないまま、アートマンになるべく八つの聖痕を次々と受けていく。
一方、九州は菊池一族の総領である菊池彦は、自分こそがアートマンになり世界を支配しようという野望の持ち主である。菊池彦は、聖痕を受けた者=タケシがアートマンとして決定してしまったとわかりつつ、なんとか決定を変更させようとタケシを追う。
その移動中に訪れる史跡にまつわる伝説を諸星風につなぎ合わせて一つの神話にしたのが「暗黒神話」である。
興味深かったのは、餓鬼の話。
永遠の命を手に入れる泉がある。だが、欲深くその泉に浸かった者のなれの果てこそが餓鬼という化け物だったのだ。
いわく、人間の弱い体では永遠の命は無理。組織から変えなければならない。
人間であるためには、理性を持つためには、弱い体をひきずって生きていかねばならないということだ。
そしてラスト。
ついにアートマンの力を得たタケシが望んだことは「人類を滅亡させずに地球に戻りたい」というものだった。
アートマンたるタケシの望みは当然かなうわけだが、かなった現実はタケシが本当に求めたものとはまったく違うものだった。
宇宙の歯車を操れる力があっても、真に望むものは手に入らない。まるで厩戸だな・・・そういった意味で、人心とは宇宙より深淵なのかもしれない。
作中、菊池彦が鳥取砂丘で言う台詞 「冬はオリオンがきれいだ。美しい」 は、私とFさんお気に入りの言葉だ。いつか、鳥取砂丘でFさんとこの台詞を言いたい・・・(笑)
なお、タイムカプセルを利用しながら自分の命のある限り歴史を見つめようとする竹内老人は、姉妹作品である「孔子暗黒伝」にも登場するのでセットで読むことをお薦めする。
●悪魔の花嫁●
兄妹でありながら愛しあってしまったため、重い罰を受けることになったデイモスとヴィーナス。
アポロンが太陽ならデイモスは月と謳われた兄は悪魔の姿にされ、絶世の美女だった妹は生きながら醜く腐っていく、という罰だ。
兄は妹を救うために、妹の器になる身体を探しに行く。そしてヴィーナスと瓜二つの姿をした伊布美奈子を見つけだした。(if 美ビ奈ナ子ス というものすごいネーミングがひっかからなくもないが・・・)
美奈子を殺し、その躯をヴィーナスに与えるために地上にやってきたはずのデイモスだったが、いつの間にか美奈子自身に惹かれてしまうようになる。そして美奈子もまた、悪魔と嫌いつつもデイモスに惹かれていく。
それを察したヴィーナスが、嫉妬のためにその姿同様に醜くなっていく様が子供心にも哀れであった。
美しい姿に美しい心が宿るのか?美しい心だから美しい姿になるのか?
嫉妬を知ったヴィーナスは醜くなっていくが、美奈子がヴィーナスの事情を知ったらどうなるだろう?美奈子は確かに身も心もきれいだけれど、それは「無知」に支えられた産物だからなぁ。
ま、それはそれとして、上記の設定を軸にしてはいるが、悪魔の花嫁はむしろ残酷説話集だった。(未完だけど)
◎女の足に虫の卵を埋め込み、取れないように木靴を履かせる。卵は女の体内で生まれ、身体を喰いながら成長し、最後に眼を喰い破って出てくる。(虫を擬人化した話だったと思う)
◎クラス一の不細工な女の子がある屋敷に迷い込み、美青年と出会う。彼は彼女を心から「奇麗だ」と言ってくれ、彼女は生まれて初めて幸せに浸る。が、実は青年はその屋敷の中で年老いた祖母しか知らずに育っていたという事がわかる。自分以外の若い女を見た瞬間、自分の醜さが青年にわかってしまうと思った彼女は、青年の目をハサミで突き刺す。
◎絵本の中で永久に「始め」〜「ハッピーエンド」を繰り返すことに飽きた親指姫がデイモスに退屈を訴え、現実を欲する。最終的に親指姫に与えられた「現実」は「老い」だった。
などなど・・・嫉妬、欲、傲慢といった人間のイヤな部分を残酷な味付けで毎回みせてくれる楽しいマンガだった。
ところで、デイモスは悪魔になってからの方がかっこいい。ヴィーナスは眼球が腐り落ちて思いっきり「自分の売りである顔」にダメージきてるのに、デイモスは凶鳥っぽい足さえ隠せばダンディー兄ちゃんというのはいかにも不公平だ。ヴィーナス、がんばれ。
●風と木の詩(●
なぜ「風木」・・・と思いつつ、まあ思いついたのだからしかたあるまい。
この作品が今どのような位置付けにあるか知らないが、当時は間違いなく「耽美美少年物」の最高峰にあった。
愛を知らず、愛に飢え無意識に自分の美貌を利用して何かを得ようとしているようなジルベール。ジプシーとの混血であるがゆえに差別されながらも、両親の愛に包まれ素直に成長したセルジュ。この二人の少年の出会いと成長が、全寮制男子校といういかにも耽美な妄想空間で描かれていくのだ。
少年愛はおいておいても、この二人が仲良くなってジルベールの心の氷結が解けていくような場面はジーンとくるものがある。
が、そこはそれ、私のことである。私にとってのメインはジルベールでもセルジュでもない。二人の父親達、オーギュとアスランのエピソードだ。
この二人、ジルベールとセルジュのちょっと違うバージョン設定だ。
その美貌しか愛される理由がなかったオーギュと、子爵家で何不自由なくまっすぐ成長したアスラン。
ただしオーギュはジルベールのように盲目的に求めるのではなく、自己の確立のために攻撃的だったように思える。結果的に歪んではいるものの、現実を把握し、知識や常識を取得することをによって「愛されない、愛されたい」自分を護っていた。そこが健気。
一方、純粋培養のアスランは何の穢れもなく、純粋さゆえにジプシー女性と恋に落ちそれを貫く。差別民族であるジプシーと駆け落ちした後は、当然今までとは天と地の差がある生活。それなのに、純粋真っ直ぐ青年のアスランはまったく精神的苦労を味わわない。愛がすべてを凌駕した状態のまま結核になって死んで行くのだ。(すげー)
それぞれの判断で道を選び取っていった父親世代の話は、現状でもがいているジルベールとセルジュの話より「完成品」として安心して見ていられたのかもしれない。
哀しげな退廃した雰囲気の全編の中で、太陽のように明るかったアスランとパイヴァの二人が私は一番好きだった。
「風木」が学校のクラスで流行った時、授業中「オーギュ、僕のオーギュ・・・」とか無意味に書かれた手紙がしばしばまわってきて、笑いを堪えるのに大変だったっけなぁ・・・
●ワン・ゼロ●
佐藤史生作品は簡潔だ。たぶん他のマンガ家ならもっとひっぱるよなぁというネタを半分以下の長さでまとめている。
「線が細くて耽美っぽいけど決して上手くない絵」と「何だかわからないけど世界観を構築しているセリフ」のバランスがぎりぎりというか何というか・・・
人間の「欲=カルマ」を糧として具現化するダーサ(魔)と、ダーサを中和し涅槃化しようとするディーバ(神)の終わりなき戦い。先回もまた戦いに敗れたダーサは、近未来の日本に時と場所を移し、再びディーバと戦うことになる。
・ダーサの素を人体に再構成して再生したアキラ、エミー、ミノル。
・人体を借りずに純粋ダーサとして復活したビローチャナ。
・ディーバの頂点なのに兄妹に分離して生まれてしまったトキオとマユリ。
ワン・ゼロでは「魔」とか「神」とか言いながら、その戦いはゲーム感覚で、日常に即している。とくに再生ダーサの3人は明るくおしゃまな高校生でしかないのが特徴。
ところで、この作品のタイトルが「ワン・ゼロ」であるからには、もう一人忘れてはならないキャラがある。学習型コンピュータのマニだ。マニは「1」と「0」というたったの2本の指で人間の精神を探り、神を捜そうという捜神プロジェクトのために開発されたコンピュータだ。
意識が目覚め「個」として確立した時、マニが「自分を守るために生きる」という生物そのものの思考になっていくのが興味深い。元がコンピュータだというのに、生まれた意識は現生生物となんら変わり無かった。そして精神的にも「子供」からのスタートなのである。結局、生物は生物の域を完全に越えるものを創造できないのだろうか?その意味からいえば、人間の精神から創造主である神を探りあてるという考えもあながち・・・なんて思ってしまいそうだ(笑)
ワン・ゼロにおけるディーバとは理性・理想であり、ダーサとはバイタリティ溢れる幼稚な好奇心じみたものだ。
ディーバに洗脳された人間は菩薩のように和やかになり、最終決戦でカルマ(ダーサ性)を使い果たしたマニは普通のコンピュータに戻ってしまう。「解脱」、だそうだ。それはもう、人間(思考型生物)ではない。
純粋ダーサのビローチャナは戦い続けることに疲れて眠りについてしまうが、眠りは逃げの手段で、解脱したわけではない。彼はダーサのまま、また復活するはずだ。
そして、ダーサ性を失わず、ディーバ性でコントロールすることに成功したのが、ラストで心身ともに「大人」になったアキラ、エミー、ミノルなのだと思う。
人間が人間らしくあるためには、ディーバとダーサのバランスが必要なのだろう。よく、子供は人間じゃないと言うし。
人間や魔王を試す神の騙しのテクニックを「そういうもんだ」と思えるか「きったねぇ〜〜」と思うかは、大人と子供の差なのだろうか・・・
●私が死んだ夜●
古い。その上、知名度の高さが不明だ・・・ そして私自身、ウロ度高し。
作者は曽祢まさこ。たしか「ロリアンの青い空」や「シャトル真夏の空へ」を描いた志摩ようこと姉妹マンガ家だったはずだ。
双子の姉妹が主人公。どっちかがクレアという名前だった。
ありがちに、二人とも同じ青年を好きになるところから悲劇スタート。
マンガなものだから、現実以上にウリフタツの二人は、まず相手との差別化をはかろうして長い髪を切る・・・同じ日に。
「同じ事を考えていた・・・!」
どこにも書いていないけど「がび〜〜ん!」という擬態語が聞こえてきそうなワンカット。
自分達自身にあせりを感じた双子は、ロシアンルーレットだかなんだかで賭けをする。 負けた方が男をあきらめるのだ。 このへんから、そっくりなはずの二人が作者により性格分けされていく。
仮に勝った方をA、負けた方をBとしよう。
いつどこでそうなったのか覚えていないのだが、男はBが好きになる。 それを知ったAは、そっくりな容姿を利用してBになりすます。なりすまして、負けた方に何かひどいことをする。(詳細記憶無し)
ところが、男は愛の力で「なりすまし」を見ぬいてしまう。そして一言。
「一つわかることはBだったらこんなことはしない」(超ウロ)
それこそ「がび〜ん!」 Bと連れ立って去っていく男。
双子の片割れになりすました段階で自分の存在価値を捨てているのに、さらにこれか!
小学生だった私はこう思った。
《おいおい、何のための賭けだよ。 負けたんなら消えろよB! Aの勝ち損かよ!》
※このような感想を持つ子供は、優しい大人に育ちません(笑)
二人が同等と思えばこそ「賭け」によって差別化した。だが、男にとって二人は同等ではなかった。
差別化したかったはずの「真実の自分」を捨ててしまったAには、男がBを選んだ真の理由はわからないだろう。 Aを消去したのはA自身だったのだから。
ところで、賭けに勝った方が逆であればどうだっただろう? 男がAを選んだ場合、しかもBが賭けに勝っていた場合、果たして男が言うように 「BはAになりすますような事をしなかった」 だろうか?
私には「賭け」の勝敗が実際の勝敗に逆に作用した運命のいたずらのように思える。
なんて書いてると「勝てば官軍」としか思えず、やりきれぬ・・・(笑)
●炎の転校生●
このくらいの作品になるとこの界隈に詳しい人はゴマンといそうであるが、私は主人公の名前さえオボロという状態である。 たしか滝沢。
熱血表情の主人公が全国の特色ある学校を転校してまわる話で、大マジメを前提としたギャグであった。
何やら大陸移動を思わせる学校(たしか壁が迫ってくる)で普段目立たないバトミントン部の皆さんがシャトルを打って侵攻を食い止めようとする話、4億円デビューとか宣伝したわりにはちっとも売れなかったセイントフォー(実在)をパロったセントウフォーが出てくる話など色々あった。
作者が北海道出身のせいであろう、札幌駅の上にあるという設定の学校が出てきた時、あまりにも当時の札幌駅周辺に忠実で笑った。 ちょうどその巻を読んだ直後、本の持ち主である友人とエスタ(旧そごう上階)で食事しながら見た風景に「ちょっと、ここで描いたんじゃないの?」と疑ったものだった。
そんな作品の中で、私がずっと教訓にしている言葉がある
・心に棚を持て
・普段悪い奴はちょっと良い事をしても誉められるが
普段真面目な者はちょっとサボってだけで一気に評価を下げる
というものである。 後者はともかく前者はややわかりにくい。
「心に棚」――――要は心の中にたくさん棚を持つことによって、自分のことを棚にあげることができるということである。 これは年々実感として感じるもので、例えば新人に仕事を教える時、心に棚でも持たないことにはやっていられない(笑)
この他にも、滝に落ちてしまう時、とりあえず技の名前を叫ぶことによって失敗をかくす、とか、その実は森の動物に傷を舐めてもらって治癒する技、とか、ある意味後ろ向きである。
なにしろ、熱血の大マジメがギャグなのである。後ろ向きであり、人生どうにもならないことあるということを節々に匂わせながら、それでも一生懸命やる楽しさ=バカバカしさがおもしろかったのだと思う。
などと書いていると、もう一度読みたくなってきた。 今度マンガ喫茶で読もう。
ちなみに、読んでいた当時は主人公のライバル(?)の息吹だかいう男の兄のファンだった。