♪ ウクライナ国歌 ♪
Ще не вмерла Україна

訳 ウラジーミル

ウクライナの自由と栄誉は死せず
我等を幸運へと導かん
仇なす者日の出の時 露と消え
いざ幸や至れよ 我らが元に

★二回繰り返し
いざ自由がため 臆せず身を奉げよ
汝がコサックが末裔ならば

Ще не вмерла України, ні слава, ні воля,
Ще нам, браття Українці, усміхнеться доля.
Згинуть наші вороженьки, як роса на сонці,
Запануїм і ми, браття, у своїй сторонці.


Душу, тіло ми положим за нашу свободу
і покажем, що ми браття, козацького роду
Душу, тіло ми положим за нашу свободу
і покажем, що ми браття, козацького роду
シシェー ネ ヴメールラ ウクライーニ, ニ スラーヴァ, ニ ヴォーリャ
シシェー ナーム, ブラーチャ ウクライーンツィ, ウスミーフネチャ ドーリャ.
ズヒーヌチ ナーシ ヴォーロジェニキ, ヤク ローサ ナ ソーンツィ,
ザパヌーィム イ ミ, ブラーチャ, ウ スヴォイィ ストローンツィ.

ドゥーシュ ティーロ ミ ポロージム ザ ナーシュ スヴォボードゥ
イ ポカージェム シショ ミ ブラーチャ コザツィコーホ ロードゥ
ドゥーシュ ティーロ ミ ポロージム ザ ナーシュ スヴォボードゥ
イ ポカージェム シショ ミ ブラーチャ コザツィコーホ ロードゥ

 この国歌はウクライナがソ連より独立を果たしたときに制定された新国歌です。それ以前にはウクライナソビエト国歌があったのですが、それを廃したようです。
 元々は賛美歌だったと言う未確認情報もあります。

 ウクライナ({露}Украина、{烏}Україна)の語源は「辺境の地」。クラーィ(край)から来ています。さて、簡単にウクライナの歴史をざっと振り返っていきましょう。 まずウクライナの首都キエフに「キエフルーシ」というロシアの骨組みとなった国が出来上がりました。このころはロシアとウクライナの区別はなくキエフルーシという国があったそうです。 で、988ウラジーミル聖公がキリスト教を取り入れたりと、ロシア文化の基となった時期です。キエフルーシは繁栄し続けたのですが・・・・

 1223にモンゴル軍に侵攻され、1240にはついにキエフが陥落。この後1480年にモンゴルに最終的に打ち勝つまでを「タタールのくびき」と言います。 で、1380年代ころになるとロシア、ベラルーシ(白ロシア)、ウクライナ(小ロシア)という具合にだんだんと分化がされていくようになります。

 何故にウクライナやベラルーシが分化されたかというと、北方にポーランドリトアニア連合が出来上がりウクライナをロシアから分捕ったからです。 この国家はヨーロッパ随一の力を誇り、あのロシアをも圧倒したほどです。後のドイツ帝国の原型のプロイセンもポーランド王国の臣下として公国と名乗っていたのもこの時期です。 そして、この時期は教会スラヴ語(古文のロシア語版)からウクライナ語が出来上がった時期でもあります。ですから現在のウクライナ語はポーランド語の影響を強く受けています。そこでロシアでもポーランドでもない「ウクライナ」が形成されたのです。

 しかし次第にポーランドの力が弱まるとロシアはポーランドを占領しました。これによりウクライナはまたロシア領となります。西部のガリチア地方とクリミア地方を除きロシア領になりました。 しかし占領されたとはいえ、この後約300年余りの間、ウクライナ人はロシア併合を拒否しつづけます。

 ・・・ずーーっと時は坂くだりロシアが帝国になり約百年が過ぎた17世紀ごろ。ロシアはウラルを超えシベリアに進出します。現在のロシアの国の原型が出来上がるころです。ロシア皇帝はウクライナ人イェルマークにシベリア討伐を命じます。

 このウクライナ人イェルマークとは?かの有名なコサック(ロシア語やウクライナ語ではカザーク(козак))の首領です。彼に命じシベリアを討伐させました。彼等コサックはいわば「農民武装団」で、税金や己の自由のために戦ったウクライナの英雄達です。
 一日に30万平方キロを占領したこともあると言われ、ロシアは東へ拡大して行きました。アメリカと逆の現象です。

 このコサックたちなんですがしばしばロシアに対し反抗をしてゆきます。しかし最終的にはロシアに併合の意を伝え1654年に降伏。

 しかし未だ反抗するコサックがいました。歌にもなったステンカ・ラージンです。かれはドン川を中心に活動しましたが、結局捉えられ処刑。しかしいまでも彼が英雄として語り継がれています。

 で、さらに時は坂くだりロシア革命の20世紀。ロシアで紅白に別れ内戦をしていたころ。ウクライナはついに独立を宣言します。やっと念願のロシアでも、ポーランドもない自分の国を持てたのです。
 が、そんなことを許すロシアでは有りません。すぐにウクライナを討伐。独立の気運をもみ消します。そして赤軍が占領し、ウクライナソビエトとして「一応の独立」後、ロシアソビエトにすぐに「加入」の形を取り事実上消滅。
 
 その後WWIIによりドイツが攻めてくるや否やまたウクライナは独立。今度はナチスドイツの傀儡としてです。しかし、またソビエトにより占領。また独立のチャンスを逃します。

 しかし。ただ独立の気運を逃しただけではありませんでした。あのスターリンがお得意の「スパイ」容疑としてウクライナ人を大量処分。よくて流刑、最悪粛清。 そしてそれにも飽き足らず国自体を「粛清」しようとしたのです。食用や資源などの搬入を停止し、ウクライナを飢餓の国とさせたのです。 このことは西欧社会はおろかソ連国内でも話されることはなく、スターリンの狂気とされ歴史の闇へと消えてゆきました。

 そのスターリンの猜疑の手はウクライナ共産党にもおよび、幹部のほとんどが粛清されました。その中で一番若かった男一人が生き残り、スターリンの片腕として頭角をあらわしました。 その名はフルシチョフ。後のソ連首相、書記となる人物です。彼の下でウクライナの飢餓状態は回復。豊富な資源をもとに工業化を進めました。

 ・・・そして時代を経てソビエトが消滅する前夜。すでにバルト三国は独立し、全ソ連中に民族独立の気運が高まっている1991年。
 新たにロシア共和国大統領となったエリツィンと、カザフのナザルバエフ、ウクライナのクラフチュクがある密談をします。
 「ソ連構成共和国中最大国である我々が独立を果たしソビエトを消し去ろう!

 そしてロシア、ウクライナ、カザフスタンが相次いで「独立」。それを昔ならすぐに消し去ることが出来ましたが、そのころのソ連邦に出来るわけがありません。 この3国が独立を果たしたことを契機にソ連は消滅。そして何よりウクライナは念願の「独立」を正式に果たすことが出来たのです。

 ・・とざっと見てゆきましたが、ウクライナは何度も独立をしようと考えていたわけです。コサックの反乱を数えると独立運動の数はキリがありません。 さて、ウクライナの歴史ではコサックと言うものは不可欠です。ウクライナ独立運動の勇士ですからね。 ですから国歌の一番下の行「我々がウクライナの子孫であるならば」とあるわけです。彼等ウクライナ人は独立や自由を重んじる人たち。それが現れているのがこの国歌です。
 それを心に留めつつ歌っていきましょう。
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