ガリシアを中心に見たスペイン史
BC10〜6?世紀〜
ケルト・イベロ人がガラエキア(ガリシア地方)に移住。
これ以後、複数の民族がガラエキアに移住。現在ではケルトの文化等の影響を受けた遺跡が多数発掘されている。バローニャ遺跡、サンタ・テクラ遺跡、ヴィラドンガ遺跡などが有名。
BC3?世紀前後〜
ローマ帝国期(約700年)
ガラエキア人というケルト人の一派が定住していたことから、ローマ人がこの地をガラエキア(現在のポルトガル北部からスペイン西北部にかけての地方)と呼ぶ。ちなみにガラエキアとはガリア人(=ケルト人)の土地という意味。ガリシアの語源。
ディオクレティアヌス帝の行政改革後、西ローマ帝国の中でヒスパニア管区・ガラエキア属州が資料により確認できる。現在ラ・コルーニャにあるヘラクレスの塔やルーゴにあるルクス・アウグスティの城壁が遺跡として残っている。ヘラクレスの塔は現在でも灯台として現役。
411年 ゲルマン系スエヴィ族がガラエキアに進出、スエヴィ王国を建設。後にラ・コルーニャが首都になる。スエヴィ人ははやいうちにローマ系移民らと混血したと思われる。またこのころウェールズやコンウォールからケルト人が移り住んでくることもあった。
585年:ゲルマン系西ゴート王国がスエヴィ王国を占領し、イベリア半島を統一。
711年 タ−リク率いるイスラムが半島を征服し西ゴ−ト王国が滅亡。ムーサーがガリシア地方を服従させた。
722年 コバドンガの戦いで、キリスト教徒が勝利。アストゥリアス王国建設。国土回復運動(レコンキスタ)が始まる。現在のアストゥリアスはガリシア地方の東隣に位置する。後にアストゥリアス王国のアルフォンソ2世ガリシア地方を併合。ガリシア人によるアル・アンデス西部の征服。
803年 サンティアゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺体が発見されたとされる。
後に大聖堂が建てられ12世紀頃には3大聖地の一つとなり巡礼が盛んになり商業・手工業が発達した。現在でも巡礼地として観光客が訪れている。
868年 ドウロ川以北を占領したアストゥリアス王アルフォンソ3世がドウロ川の河口の街ポルトカレを占領し、後にポルトカレとガリシアを分離、ポルトカレをヴィマラ・ペレス伯爵に与えた。伯爵の血をひくメンデス家は、ポルトカレ周辺に勢力を拡大した。
914年 アストゥリアス王国、首都をレオンに遷都。レオン王国設立。ガリシア地方もレオン王国に組み込まれている。
10世紀末 一部のレオン貴族と結んだ後ウマイヤ朝がサンティアゴ略奪。
11世紀前半 サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者が通る道路が整備される。
1037年 カスティリャ王フェルナンド1世がレオンを継承しカスティリャとレオンが統一される。後に子供らに分割。
1065年 フェルナンド1世の子ガルシアがガリシア王国を継承。ガルシアはバダホスとセビーリャの貢納も継承。またサンチョにはカスティリャ、アルフォンソにはレオンを継承させていた。
1071年 ポルトカレの支配者ヌノ・メンデスがガリシア王国と戦って死去。ガリシア王国がレオン王国らに併合される。
1072年 レオン王国が相続により分割されていたカスティリアを再統一。
1096年 ポルトカレ伯領の誕生。
11世紀後半 サンティアゴ・デ・コンポステーラに多数のフランス人定着。このころガリシアでは教会・修道院の支配化の都市が多く、地方貴族の力も強かった。
1110年 サンティアゴ巡礼路の諸都市の市民蜂起が起こる。
1121年 ポルトカレ伯エンリケの未亡人テレサは、ガリシアの大貴族トラヴァス家のフェルナン・ロペスと再婚。トラヴァス家の当主ペドロ・フロイラス(フェルナン・ロペスの父)はポルトカレ伯領を併合した上で、ガリシア王国を再興することを狙っていたようである。またこのころサンティアゴ司教のディエゴ・ヘルミレスはクリュニー修道院の支援のもとに旧ガラエキアのブラガ大司教区に勢力をのばそうとしていた。トラヴァス家とも手を結んでいたようである。この頃のポルトカレ伯領はガリシアとの結びつきが強く、移住してきたガリシアの貴族と同化していたこともあった。
1126年 レオン・カスティリア国王アルフォンソ7世は、サンティアゴ大司教ディエゴ・ヘルミレスにガリシアの統治権を与える(大司教の後ろ盾でアルフォンソ7世は国王になっていた)。トラヴァス家とポルトカレ女伯テレサは、サンティアゴ大司教への服属を拒否し両者の対立は激化する。翌1127年にはポルトカレ(ポルトガル)各地で焼き討ちが発生した。
1130年 王家の血を引くテレサの死によりトラヴァス家はガリシア王国再興の機会を失い以後レオン・カスティリャ王国に接近していく。
1140年頃 『巡礼案内』(作者不明)が刊行される。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼案内がかかれている。
1143年 ガリシアの南でポルトガル王国がサモラ条約により認められる。
12〜13世紀 サンティアゴ・デ・コンポステーラで自治権を求める激しいコミューン運動が発生。このころも教会や修道院の力がガリシア地方では強く近代までそれは続く。
1230年 カスティリャ王国がレオン王国を最終的に統合。カスティリャ王国は13世紀までにイベリア半島の大部分を支配。ガリシア王国もカスティリァ王国に組み込まれている。
1348年頃 ラ・コルーニャ近隣にペストが発生する。
1438年 サンティアゴ騎士団のドン・ペドロが摂政として実権を握る。
1467年 ガリシアでイルマンディーニョスの反乱(〜1469)が起こる。
1479年 アラゴンとカスティリャの統一。スペイン王国の成立(実際には同君連合)。ガリシア王国もその一部となる。
1492年 ナスル朝が滅びレコンキスタ終焉。コロンブスがサンサルバドル島に到着。
1494年 ポルトガル、スペインの新規発見地の境界をトルデシ−ジャス条約により設定。
1501年 コンポステーラ大学創立。
1516年 ハプスブルグ朝スペイン成立。ガリシア地方も引き続きスペインの一部となる。ガリシアの港は現在にいたるまで海軍の拠点となっている。現在ラ・コルーニャにあるサン・アントン城はこの時期に建てられる。サン・アントン城は17世紀に刑務所として使われ現在では歴史・考古博物館として公開されている。
1519年 カルロスが神聖ローマ皇帝になる。
1520年 カルロスは4月1日に戴冠式に出国するための費用を捻出するため、サンティアゴ・デ・コンポステーラで議会を開催した。議会は貴族たちを反発させ失敗に終わり、特別上納金の支払いも拒否された。4月10日にラ・コルーニャに場所を移した議会で、根回しの結果大多数の都市が上納金の支払いに同意し、戴冠式に向かうことができた。
1580年 フェリペ2世がポルトガルを併合する。(〜1640)
1588年 無敵艦隊(アルマダ)がラ・コルーニャより出航。イギリスに敗れ制海権を失う。
17〜18世紀 この頃サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼は衰退していた。
1700年 ブルボン朝スペイン成立。ガリシア地方も引き続きスペインの一部となる。
18世紀末 通商の自由が確立される。このころからラ・コルーニャが植民地貿易に加わり同時にガリシア人のアメリカ大陸への移民が始まった。アメリカ大陸に渡ったスペイン人の約50%がガリシア人であった。
19世紀初頭 ガリシア地方に白土の鉱床が見つかり、陶器(サルガデロス)の製造が始まった。
1808年 ナポレオンの兄ジョセフがスペイン国王ホセ1世として即位。この後スペイン独立戦争へ(〜13)。
1809年 スペインの要請でイギリスのムーア将軍がフランス軍と戦い(ラ・コルーニャの戦い)、勝利を目前にして戦死する。
1812年 ホセ1世をスペインから追放。
1813年 フランス軍はスペインから撤退し、ナポレオンはフェルナンド7世に王位を返還した。
1816年 アルゼンチン独立。後にアルゼンチンに移民したスペイン人の多くはガリシア系の人々だった。現在でもスペイン系のアルゼンチン人をガジェーゴ(ガリシア人)と呼ぶのはそのため。
1818年 チリの独立。チリの首都であるサンティアゴはガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステーラが由来になっている。メキシコ、ペルー、アルゼンチンなどにも同じ名前の都市があるが由来は同じ。このことからも南米に数多くのガリシア系移民がいたことがわかる。
1820年 アンダルシアでのリエラによるクーデター宣言をうけてラ・コルーニャで反乱が起こった。
1823年 フェルナンド7世により絶対君主制が復活。
1869年 憲法制定議会選挙が初めて普通選挙で実施。プリムを首班とする内閣が成立
1870年 スペイン議会がイタリア国王の第二皇子アマデオを承認。73年退位。
1873年2月11日〜1874年1月3日 第一共和制。後に王政復古のクーデター。翌年アルフォンソ12世即位。
1891年 ピカソがラ・コルーニャに転居してくる。幼少期をこの地ですごす。
1892年 ガリシアのフェロールで後の国家元首フランコが生まれる。
1895年 ピカソがラ・コルーニャで「裸足の少女」を描く。その後バルセロナへ転居。リョジャ美術学校で学ぶ。
1898年 米西戦争勃発。キューバ独立を承認。ちなみに現在のカストロ首相はガリシア系の血を引いているようである。またこのころスペイン各地で自治運動が盛んになる。
19世紀末以降 ガリシアで自治を求める地域ナショナリズム運動が展開されるようになる。後に自治権獲得目前までいくが内戦により頓挫。フランコが死去するまで自治は認められなかった。
19世紀後半〜20世紀 このころが移民の最盛期。移民局はラ・コルーニャとビゴに出港地を限定して不法移民を防止しようとした。
1914年 第一次世界大戦。スペイン政府は「絶対中立」を宣言。
1931年6月28日〜1939年3月28日 統一地方選挙を実施後、スペイン第2共和制へ。
1936年 スペイン内戦。ラ・コルーニャやフェロールも内戦に巻き込まれる。(このときの社会状況は「蝶の舌 マヌエル・リバス著 角川書店」を読むとわかりやすいです。同名の映画もあります。)
1939年 内戦終了。フランコ体制へ。主権在民、政治活動、普通選挙、労働組合の結成などは廃止された。地方から大きな反発を呼ぶ。ガリシア語やカタルーニャ語、バスク語も禁止させられた。またこの年第二次世界大戦勃発。スペインは厳正中立を宣言した。
1950年以降 ガリシアから他のヨーロッパ諸国やカタルーニャ、バスクへの移民・出稼ぎが増えた。
1975年 フランコ死去。フランコ体制の終焉。ラ・コルーニャでZARA1号店がオープン。
1976年 ファン・カルロス1世、民衆的な政治改革への態度を表明。
1979年1月 「1978年憲法」が公布され、主権在民による立憲君主制を規定した。カタルーニャ、バスク、ガリシアの自治権が承認される。
1980年12月21日 住民投票によりガリシアの自治令を承認。
1995年 建築家の磯崎 新さんが「ラ・コルーニャ人間博物館 」を建てる。
1996年 総選挙で国民党が第一党となる。ガリシア・ナショナリスト・ブロックが2議席を獲得。
2002年 ガリシア沖で石油流出事故が起きる。
現在のガリシア
場所
スペイン北西部地方。ラ・コルーニャ、オレンセ、ルーゴ、ポンテベドラの4県からなる自治州。州都はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。人口291万人。緑が豊かで、イベリア半島最大の降水量がある。
産業
第一次産業の割合が40%台と高い数字である。
農地はミニフンディオと呼ばれる細分割地からなり生産性は低い。
畜産・酪農が盛んで養豚はスペイン最大。漁業はスペインの漁獲高の25%を占める。
社会
民族のルーツはケルト系。宗教はカトリック。政治体制はカタルーニャやバスクと異なり、保守的風土に支えられ右派の全国政党(国民党)の拠点(特にガリシア南部)となっている。民族主義政党もあるが他地方と違いあまり力を持っていないようである。ガリシア地方は現在でも移民が多く、ガリシアの在外選挙権を持つ人々が30万人と推定される。これは全有権者の15%にあたる。フランコ体制の終焉後、ガリシア語が再評価されカスティリャ語と共に公用語として教育されている。現在のガリシア語の言語人口は約200〜300万人。社会問題は若年層の人口流出・高齢化などの問題を抱えている。
文化
スポーツではデポルティボ・ラ・コルーニャの他にセルタ・デ・ビゴがガリシア地方のサッカーチームとして1部に存在している。この2チームで争う年に2回のデルビ・ガジェーゴは毎年盛り上がる。他にはフェロールやコンポステーラといったチームもある。地域リーグは3部(実質4部)のグループT。デポルティボBもここに所属している。音楽ではスパニッシュケルトが有名。ガイタ(バグパイプ)などを使い、アイリッシュケルトとは一味違った音楽を聞かせてくれる。カルロス・ヌネェスやルアル・ナ・ルブレが有名。食事はガリシア料理が有名。魚介類を中心としたメニューである。白ワインも有名。観光も盛んでケルト遺跡やローマ時代の遺跡なども数多く残っている。またガリシア地方では現在でも教会や修道院が多く、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼は最近ではまた増えはじめているようである。
参考資料
スペイン・ポルトガル史 立石博高 著 山川出版社
スペイン・ポルトガルを知る事典 平凡社
ポルトガル史 金七紀男 著 彩流社
スペイン歴史紀行 レコンキスタ 東潔 著 星雲社
スペイン「ケルト」紀行 ガリシア地方を歩く 武部好伸 著 彩流社
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