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   「ちょっと長いプロフィールを」


     さて、どこから話しはじめましょう。思い切って最初から。
   僕は昭和28年7月13日に淡路島に生まれました。岩屋というところです。
   昔は連絡船が行き来したところです。僕はその当時裕福な家に育って、
   岩屋のかなりの部分の土地、家屋は祖父のものでした。が、3歳の時に
   斜陽で神戸に出て18歳まで育ちました。僕が高校に入ったのは1969年の
   安保闘争の前年ですから、70年安保の時代で僕は所謂過激派と謂われる
   一派のリーダーを高1の頃からしていました。何かしら社会科学の本を読む
   才能があったみたいで、すぐに神戸大学の過激派の溜まり場で、高1の
   僕が命令を下す役割を担いました。学生運動に入る前は所謂よく出来た
   学生だったので、京大ねらいで勉強ばかりしていました。高1の秋にはもう
   ヘルメットをかぶった親玉でしたから、学校の勉強というものを全くしなくなり
   ました。神戸大学の教育学部が拠点でしたから、僕はそこに入りびたって
   いたような次第です。高校を卒業するに当たって僕の仲間の多くは運動の
   影響で高校をたくさん辞めていきました。僕もあと3日欠席すればで退学
   でした。何とか卒業できたものの、学校を辞めた仲間へのやくざ的共感も
   あり、その年は受験しませんでした。また受験してもどこにも受からなかった
   でしょう。真面目に勉強したのは3年間のうちの数カ月でしたから。で、東京
   に訳もなくいきました。秋葉原の電気屋でアルバイトを何カ月かして、
   アテネ・フランセ(フランス語の専門学校です)でフランス語を勉強していました。
   フランス語は学生運動をやっているときからネイティブにずっと教えてもらって
   いたのです。その頃はフランスの5月革命の時代ですから、フランス語流行り
   でしたので。

     僕は単純に影響されます。フランス語を本格的に勉強し始めて、大学で
   勉強する必要性を始めて感じまして、神戸の祖母のところに6カ月転がり
   込んで必死で勉強しました。もう京大などはほど遠い存在でしたので私学
   ねらいでした。大学にとおったら授業料は自分で稼ぐという約束で勉強
   させてもらいました。フランス文学を本音のところでは勉強したかったので、
   慶応大学の文学部をねらいました。それから同志社の英文科と法学部、
   それに関西学院大学のフランス文学部と社会学部を受験しましたが、幸い
   すべて合格しました。しかし僕は迷いました。慶応に当然行くつもりでしたが、
   授業料は自分で稼ぐ身分ですから、留学などはちょっと現実的ではありま
   せん。それに食い詰めることも考えました。自分で食う道で一番易しいのは
   どこかと考えました。そこで選んだのが同志社の英文科です。英語の教師
   になろうかと思ったのです。4年間はバイトでしんどかったです。就職の時に
   たまたま私学の募集がありました。ちょうどその頃は第2次オイルショックの
   時代で就職口は私企業は殆ど国立大学にさらわれてしまうありさまでした。
   僕も受験した私学は30に一人しか受からない状況でした。僕にとっては、
   厳しい争いでしたが何とか合格して23年間をそこで過ごしました。たぶん、
   僕が入ったころの給与は京都府下で最もよかったと思います。だいたい
   動機が不順です。(笑)

     僕は学校に入ってからは、ずっと生徒会と組合運動の先頭に立っていま
   した。当局には散々睨まれました。尾行がつくような始末で、しかし僕は
   そんなものはすいすい乗り切りました。が、23年もすると感覚が鈍るの
   でしょう。学校改革の時期に入って、僕はネイティブの先生を数人入れ英語
   教育の根幹を変えようとしていましたし、生徒に長期の留学制度を体験させ
   たかったもので、自分で旅行社と5社ほどと掛け合って、留学制度の可能性
   を探りました。それが僕のプロジェクトだったのです。そのために僕も自費で
   数カ国に調査に行きました。しかし、僕も便利でしたし、旅行社と同行した
   わけです。そこを当局に狙われました。僕が旅行社から金銭の授受を受けた
   という理由をでっちあげたのです。勿論僕には領収書もありましたし、問題は
   なかったのですが、懲罰委員会というのがあって、これは理事会の、僕を
   辞めさせたい人間ばかりで構成されている委員会で調査をするということに
   なりました。もうこうなるとダメです。過去からいくらでも僕を不利にする材料
   が掘り起こされます。理事会から前妻にこれにかかれば、懲戒免職になる
   から、依願退職をするのが賢いやり方だと陰でやりとりがなされたようです。
   僕は無念の想いで依願退職の道を選びました。46歳でした。もうまともな
   再就職の口はありません。女房も信じられないし、もう死んでやろうと3回
   自殺を試みましたが、見事に失敗しました。永年かかって建てた家も売り、
   車も売り、女房とは別れ、いま24歳と21歳になっているはずの息子たちとも
   わかれ、僕は殆ど一銭も持たずに、いまの女房(同僚で、僕が辞めた後、
   彼女も学校を辞めました。いまは塾で教えています)それから何年かは
   予備校の非常勤講師をやりましたがことごとくうまくいきませんでした。
   いまの女房に食べさせてもらっていました。このマンションには本と当面の
   服だけをもって引っ越してきたのです。

     ある日、ふと新聞の広告欄で大阪にカウンセラー養成所があるのが目に
   とまりました。それがきっかけですが、養成所を卒業する時、この養成所の
   講師になるか、カウンセラーとして独立起業するか迷いましたが、養成所の
   方針に合わず追い込められた形で独立しました。でもいまは独立して
   よかったと思っています。たくさんの方がカウンセリングを受けてくださいます
   ので、生き甲斐のある毎日を送っています。大きな絵を書くとまあ、こんな
   ところでしょうか。僕には、考えが足りないのです。生きる知恵というものが
   僕には足りなかったのでしょう。そうでなければ当局を困らせながら教師を
   やっているでしょうから。積み上げてきたものを一挙になくすこともなかった
   でしょう。

     現在僕はいろんな方とお話をさせて頂いています。ほんとうに勉強に
   なります。自分の人生に対する認識の浅さ、生きることに対する真摯な態度
   の欠如、そういう人間にとって大切な要素をカウンセリングを通して、私の方
   が勉強させて頂いています。ありがたいことだと思っています。
   京都カウンセリングルームに来てくださった方々、これから来て頂く方々、
   ほんとうにありがとうございます。これから、僕は自分の人生を明らかにして
   いくためにも、クライアントのみなさんと、命がけで対面します。いい加減な
   仕事はしません。どうぞこんな人間ですがもしなにがしかの共鳴を受けられた
   方は遠慮なく、ここにお越しください。いつでもお待ちしています。
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