心が変わると世界が変わる

人間は心によって生きていると考えてもよいでしょう。いろんな意見があり
ます。唯物論的には人間は肉体、特に脳にからの指令によって生きているという
方もいます。しかし、よく考えてみると、それではその脳は誰が創ったのか、
ということが問題になってきます。進化論を反論するまでもなく、人間は当初
から人間であり、猿やもっと単純な生命から進化してきたのではありません。
人間は心をもったある種霊的な存在です。こんなことを書けば、筆者は神がかり
ではないかと憶測される方もいるでしょうが、もし脳が人間を生かせているならば、
その脳みそは誰が創ったのでしょうか? それは私たちがもともと霊的な存在
であることを裏付けています。私たちは肉体の塊では勿論ありません。もっと
勿論私は潜在意識の存在は否定しません。むしろ潜在意識と顕在意識との両方
からコトバは発せられていると考えるのが妥当な考え方ではないでしょうか。
ですから、潜在意識を問題にしようと顕在意識を問題にしようと、その根本には
コトバの存在が抜き難い形で存在します。心理学にはいろいろな方法論があります。
完全なことがあるとしても、全て認めてよいでしょう。しかし、最終的に人間は
何によって癒されるのでしょうか? それは医師が医薬を使おうが、その効力が発
揮されるのは、たとえば、この薬では効かないけれども一度試してみよう、と
言ったとしたら、患者はどうなるでしょうか。快復は結果的にするかもしれませ
んし、しないかもしれませんが、その医師のコトバを聞いた患者さんは確実に
快復が遅れます。それはコトバが後ろむきだからです。医師が患者に大丈夫です
よ、この薬を使えば絶対によくなりますよ、というコトバとともに治療にかかれ
ば、患者の快復は間違いなく早くなります。それは単なる暗示の力ではなく、
患者の心が医師の良きコトバを受け入れ、それが快復を早めているのです。
それではカウンセリングではどうでしょうか? いろいろなサイコセラピーを試し
ても最後に辿り着くのはコトバの力です。カウンセラーのコトバがクライアント
に感応するのです。ですから、カウンセラーはクライアントのコトバだけを聞い
ていたのでは、クライアントが自分のコトバによる「気づき」を得るまでにたい
へんな時間とお金がかかってしまいます。これまでの心理療法はそれが主流でし
た。しかし、これからはもっと異なった方法論が必要です。
カウンセラーは辛抱強くなければなりません。クライアントに気づきを与えな
くてはなりません。そのためにカウンセラーがクライアントのコトバに一生懸命
に耳を傾けます。これはカウンセラーにとっての最小の条件です。ところが、最
近のカウンセリングの傾向としては、このクライアントの声に耳を傾けるという
点で大きな誤解があります。多くのクライアントが、ただただクライアントの発
するコトバを聞き続け、そのコトバに共感する(と言っても聞いているだけか、
あいづちを打つだけなのですが)ことだけに全存在をかけているかのようです。
勿論それで成功することは確かにあります。しかし、この方法論によってクライ
アントが立ち直っていくためには膨大な時間と費用とがかかります。これは
つまりは前記した意味における共感によってクライアントが自分で自分のコトバ
に含まれる意味を発見させ、その気づきによって立ち直らせようとするものですが、
大体の場合、この方法論では途中経過でクライアントは自分の立ち直りを確信する
ことを忘れてしまいます。気がつけば直っている、というスタイルです。それは、
カウンセラーはひたすら相づちを打ち、耳を傾けるだけだからです。
しかし、私の場合はカウンセラーは辛抱強くなければダメですが、前記したよう
な方法論はとりません。クライアントの気づきをもう少しだけ積極的に援助します。
この方法はちょっとした勇気も入ります。クライアント自身がまだ気づいていず、
その問題にまだ対処できる力が自分の裡に宿っていないことを、積極的なコトバを
かけることによって呼び出します。確かにクライアントがそのために比喩的に言えば
心の中で悲鳴を上げることもあります。いやコトバを換えて言えば意識的に悲鳴を
上げさせるのです。勿論そんなことをすれば、クライアントが余計に不安感をつのら
せるのではないか、最悪の場合、クライアントが自らの命を落としてしまうのでは
ないかと反論されるカウンセラーの方もいらっしゃるでしょう。しかし、私の言う
積極的なコトバというのはあくまで、クライアントに対する深い洞察力がまず根底に
あり、その後に共感があるということでしかありません。洞察の深さによってコトバ
の強弱の度合いは変わりますが、それでも、私の場合はあくまでアグレッシブな共感
の方法をとります。しかし、あくまで、自分の意見をクライアントに押しつけている
印象を与えてはこの方法論も意味がなく、単なるお説教や教えと言っても過言では
ありません。カウンセラーが忘れてはならない鉄則はクライアント自身が自分の力で
自分の問題を気づいたという喜びや苦しみを味合わせなければカウンセリングとは
言えません。ここにこそコトバの力の意味が隠されています。
クライアント自身に気づかせるからこそ、それを辛抱強く待ち、聞き手に徹する
のだという反論を持っていらっしゃる方もあるでしょう。しかし、前にも書きま
したが、時間と大枚のお金がかかるカウンセリングですから、あまりクライアント
の気づきに待つ、という待ちの姿勢に徹することは、結局、クライアントは何の
ためにカウンセリングに来ているのか分からなくなる可能性があります。そして、
もっと言えば、何が問題で自分がどんな悩みを抱えているのかも分からないままに、
時間の経緯と供に直っていくというパタンは避けるべきです。ここで敢えて主張
したいのは、コトバは生きているという実感です。いろいろな要素をはぎ取って
いけば、何が残りますか? それはお金でもなく、肉体でもなく、勿論服でもなく、
下着でもありません。最後に残るのは人間の心です。これだけが、人間を生かせて
いる実体ですから、この心に訴えかけることが出来れば、カウンセリングは必ず成功
するのです。それでは心はどこにあるのか、ということですが、どこにもあるとも
答えられますが、その姿はありません。言い方を変えれば、コトバがまず存在し、
もの事が始まるのです。日本人は特に無意識な唯物論者が多いですから、そのことに
気づいていません。だから、西洋医学が特に好きです。いや、それだけが医学である
とも思っています。もし、心だけに限らず、体のどこかに異常が起これば、まず、
医者を頼ります。それはそれでよいのですが、重病であってもプラシーボ(偽薬)を
使うことによっても、本物の薬を使うことによっても治癒率は逆に、コトバの力が
強ければ、あるいは患者の心に響くコトバを使えれば、プラシーボを使った患者も
治癒する場合が多いのです。かえって薬はその副作用もきつい場合もあり、それだけ
危険が伴います。
カウンセリングに来られる方々は多くの場合、精神科や心療内科で精神薬を
もらって、それを飲みながら、症状がとれずに結局カウンセリングを受けにやって
来ざるを得ないというのが現実のようです。だからと言って私は精神薬を全否定
しません。むしろ、それが助けになっている場合もあると思っています。ただ、
さきほどのプラシーボの話ではありませんが、薬はお守りみたいなものでもある
ことも否定できません。例えば、重度のうつ病の場合は別ですが、最近はISSR系
の坑うつ剤が大流行で、それをもっていないクライアントがいないくらいです。
私が認めるのはこの種の坑うつ剤と、お守り程度の精神安定剤です。無論殆ど上記
の機関では話をじっくりと聞いてくれる時間がありませんので、身体的に治癒して
いくことでしかないのが現実のようです。カウンセラーの出番はここからです。
人間の生命はコトバによって成り立っていると言っても過言ではないでしょう。
人間はコトバによって生き生きと生きることも出来れば、コトバによって死さえ
選びとることも出来ます。たとえば、精神力が弱まっている場合によく自殺を
試みる方がいらっしゃいます。勿論それによって亡くなった方々には確かめる術は
ありませんが、生き残った方々からは、ご自分が死の淵にいる時、必ず、コトバに
よって自分の行動を形づくっていきます。死を選択しようとするのも自分を説得し、
自分を納得させ、自分の行動として実行しようとするのです。ここにはよくマスコミ
の報道にあるように、咄嗟的に自殺という行動をおこした、ということは存在しない、
という仮説を敢えて私は立ててみたいと思います。人間が自分の意思によって亡くなる
場合、不幸なことですが、ご自分の存在を否定するコトバを自分で発しています。それが
自殺というもののあり方であると定義しておきたいと思います。
カウンセラーはその意味で意義ある職業ではありますが、怖い仕事でもあります。
カウンセラーというと「癒し」というコトバがすぐに出てくるようですが、私に言わせ
れば勿論癒しの部分があるにはありますが、それ以前にカウンセラーはクライアントと
コトバで格闘しています。クライアントを自分のコトバの領域に引き込めたとき、初めて
癒しという余裕のある表現で言い表してもよい状況が生まれるのです。カウンセリングは
繰り返しになりますが、コトバのバトルです。そして、そのコトバがクライアントの心に
到達しない時、カウンセラーは敗北したことを認めなければなりません。そして敗北は
多々ありますし、またカウンセリングの場とはそういう厳しいコトバのやり取りの場でも
あるのです。もう少しよく考えてみれば、人間の世界はコトバによって何もかもが出来
上がっているのです。何も問題が起きない場合はそのことに気づかないだけです。3次元的
な空間にある物質の世界で私たち人間は生きていると思っていますが、私はそうは考えま
せん。もし人間が3次元的な世界観しかもっていないとすると人間はコトバの創造力による
よりも、まず物質的なことの方が生の優先順位としては高いことになってしまいます。
そういう考え方の人たちが殆どですが、しかし、この発想に立つと世の中がつまらなく、
退屈になってきます。そして、精神に異常をきたすことが多くなってきます。昨今、
これだけ精神の病を抱える人が多くなったのは、必ずしも世の中の仕組みが厳しくなった
ことだけにその原因があるのではないのです。それよりも物質的な価値が高まり、精神性
なるものの価値が見捨てられていることによるのです。つまりは心の存在が軽視されて
いると言えるのです。カウンセリングはカウンセラーとしての人間存在とクライアントと
いう人間存在との間で交わされる心の対話です。この対話をどれだけ有効に働かせること
が出来るかどうかが、カウンセラーの力量であるのです。
コトバによる対話とは、心と心のぶつかり合いです。カウンセラーはややもすると聞き手
だけにまわっているひ弱な存在のようですが、実はそうではありません。確かに現れとしては
そういう場面が多々ありますが、実のところはカウンセラーの側では、クライアントのコトバ
をいろいろな角度から瞬時に分析しつつ、聴いています。コトバは勿論発せられる言葉通り
ではありません。コトバには隠された意味もあります。それを見抜けないカウンセラーは
いません。私のようにアグレッシブに切り込んでいく場合のあるカウンセラーなら、さらに
過酷な洞察力を必要とします。極端に言えばクライアントが明るい希望に満ちたコトバを
投げかけている時、もしそれがうつ症状がある場合は自殺の危険があると見抜かないといけま
せんし、逆に死にたい、というコトバの裏に、生に対する大いなる興味を抱いているクライ
アントも存在しています。
私は敢えて、クライアントの具体的な症例を出さずに議論しています。なぜなら、
クライアントの症例は参考にはなりますが、私の考えでは個々別々の現れであって、一つに
括ることが、間違いを起こすことに繋がるかも知れないという危惧があるからです。現在、
たくさんの心理学の本が出版されています。その中には癒しのためだけの本もたくさんありますが、
クライアントがその本を手にとって、読んでみて、それなりの感動を体験するのですが、いざ、
自分の症例がよくなっているかというと、意外に、効き目がありません。繰り返しますと、例えば
うつ症状が出ているといっても、それを一般化して一つの読み物にしてしまいますと、個々別々の
クライアントのコトバの裏に隠された真実の姿が視えてこないのです。勿論あえてうつ症状の
クライアントにやってはならぬことは一般論としては使えます。が、そのことよりも、
クライアントの別々の生育歴の中にかくされた、原因を見逃す恐れがあるからです。その点、
コトバは個々のクライアントの心の中の叫びであり、具体化であり、生育歴の片鱗であるの
ですから、この点からクライアントとの接点をもつ必要があると私は確信しています。
カウンセラーにとって欠くべからざる課題は、クライアントはたとえばそれが某かの病名
がつくとしても、あくまで、目の前のクライアントは世界にたった一人しかいない貴重な存在
としての一個の人間としてみなければなりません。たしかにうつ症状がでれば同じ種類のあるいは
同系統の薬が精神科や心療内科では出ます。しかし、カウンセリングの場合は、あるひとつの
系統にそのクライアントを括ることはできません。その<場、その時>に出会ったクライアントは
誰でもない、目の前にいる一個の人間としてのクライアントなのです。ですから、カウンセラー
は目の前のクライアントを丁寧に扱います。決して病名で括って、同じコトバを投げかけるのでは
ありません。だからこそ、私は掛けるべきコトバの意味を深く洞察しながら、投げかけるのです。
そうでなければ、私のように時にクライアントに切り込んでいく方法論を使うカウンセラーに
とっては危険なのです。コトバの使い方によって相手は傷ついて帰る、ということにもなりかね
ません。しかし、私はまだ、そういう失敗をしたことはありません。クライアントは来談に
訪れた時と帰るときとでは必ず、その表情が変わっています。クライアンんトの表情はカウン
セリングの後、笑みが浮かんでいます。あるいは、感極まって涙を流しています。勿論その涙は
傷ついた涙ではありません。すっきりとした涙です。帰り際、その涙は喜びの表情に変わって
います。
こんなことを書けば私が何か特殊な才能を持っていると思われるかも知れませんが、私は
ごく普通の人間に過ぎません。ただ一つ敢えて告白しておくなら、私は過去における
自殺未遂者ではあります。奇跡に近い助かり方をしましたので、人間の生死の意味を深く
考えるよき機会を得ました。私の場合は気質的に自殺を遂げようとしたのではなく、外部的な
要因です。くわしく書いても意味がありませんので、この問題はこれくらいにしておきます。
私はコトバを投げかけますが、決して強い調子で投げかけるのではありません。コトバは
たぶん小鳥の羽のようにクライアントに届いていくような感じでしょう。つよいコトバを使う
時も同じ調子でクライアントには印象としては同じように届いているはずです。もう一つ
言えることはクライアントをよく観察しますが、できる限りコトバはクライアントと同じ視点に
立って発せられるということです。これが上から、コトバを投げかけますとクライアントは恐れ
ます。また、本当に心を開いてくれません。コトバはクライアントと同次元のコトバが投げかけ
られなければなりません。これが、コトバの力が生きる基本的要件です。
クライアントにコトバが通じない場合はどうなるのでしょうか。それはクライアントが私の
コトバを拒否している場合であり、そのコトバを受容できない状態にあるということです。
その時は私は多くは喋りません。沈黙というコトバがあるからです。沈黙というコトバによって
クライアントは黙っていられなくなります。ぼそぼそと話し始めます。それがたとえつたない
事実の羅列であれ、カウンセリングにとっては大きな収穫だと言えるでしょう。この種の
クライアントはカウンセラーにとってはある種理不尽なコトバで返してきます。話しに脈絡が
ないのです。その脈絡のないところからカウンセラーはコトバを紡ぎ合わせていく作業が必要に
なります。この場合はその場のカウンセリングではクライアントのコトバを集約し、把握できま
せん。次の機会に待つことになります。カウンセラーは考え、待ちます。しばらくカウンセラー
のもとを離れても必ずこの種のクライアントは戻ってくるからです。本当はつらくてしかたが
ないのです。つらいのに、自分の課題を課題として認識できないのです。そのためにコトバが
平行線を辿っていくわけです。ですから、クライアントにもその平行線になってしまっている
事実を考えさせる時間がどうしても必要になります。そして必ずクライアントはその平行線を
辿っているところから、カウンセラーのコトバの領域にまで上がってきてくれます。またその
ことを信じてやれなければ、カウンセラーという重い、時間を要する仕事はできません。
カウンセラーにとって最も必要な要件は忍耐力であると言っても過言ではないでしょう。
摂食障害に陥ったクライアントはカウンセラーにとってはむずかしい対象です。この種の
クライアントは理性が働きませんので、コトバの力が通じにくいのです。そしてクライアント
のコトバも感情的な細切れのコトバになります。そしてコトバの力によって摂食障害がなくなる
ということ自体を信じていません。ただ、このクライアントが精神科や心僚内科に通って
坑うつ剤や安定剤を処方してもらっても同じ結果に終わることが多いのです。この種の
クライアントにとって何が必要かというと摂食障害に陥っている内実は何かということを
クライアントと同じ視点でコトバにでき、そのコトバを受け入れてくれた時に初めて
癒しがはじまります。ただし摂食障害のクライアントの心は退行作用を起こしています
から、コトバは感情にうったえかけるようにしなければそのコトバが届きません。
ともあれ、摂食障害は難しいケースであることは間違いありません。
コトバの力をずっと問題にしてきましたが、よく考えてみると、この人間社会
そのものがコトバの世界で成立しています。勿論コトバがご不自由な方々もいらっしゃ
いますが、その方々も何らかの方法で発声するコトバに変わる手段を使っていらっしゃい
ます。またコトバは声に出して言うことが一番効果がありますが、手紙やE-mailや
ファックスの世界であっても意味があります。私が問題にしているのはコトバというもの
の根本です。良きコトバは相手方に必ず深く浸透していきます。そうすると、相手方の
クライアントの血流はよくなり、心に鬱積していた苦悩や哀しみなどのマイナスの問題
を表面に出してきます。そうして、クライアントは自分のコトバにして、カウンセラー
に語りかけていることになります。それは単なる対話の効力を言っているのではなく、
クライアントは発したコトバそのものが、クライアント自身が聴き取る、という一連の
行為によってクライアントの癒しが始まっているのです。ですから、単なる聞き手に
廻っているカウンセラーにおいても、何らかの成果が現れることがあるのは事実なの
です。しかし気をつけねばならないことは、それはクライアントご自身のコトバの
力をご自分で聴くことによってご自分で治癒していくという過程を経ているだけ
のことなのです。勿論それでよいという考え方のカウンセラーの方々もいらっしゃ
るでしょうが、私は、それだけでは半分の成果しか期待できないと思っています。
クライアントがご自身のコトバをご自身で聴き取ります。それは原初的な気づき
であるのです。当然そういう気づきには限界があります。その原初的なコトバの
表現をソフィストケイトさせるのが、カウンセラーの役割です。カウンセラーの
方からコトバで整理をした内容が出てきたら、そのコトバをさらに普遍化させて
いくという作業が必要です。クライアントのコトバはあくまで個別的な事柄に終始
しますから、それを普遍化することによって、異なった場面における癒しの方法を
クライアントにお教えすることが出来るはずなのです。私が切り込むのはこの普遍化
に関わる部分です。私もプロのカウンセラーですから、いつもクライアントのコトバ
を遮ってまで、クライアントの心の底へ割り込んでいくことはしません。それはある
場合は危険なことさえありますから。繰り返して言えば、クライアントのコトバを
普遍化するためのノウハウがあるのです。
クライアントのコトバを普遍化させるには、カウンセラーが心を全開にしてクライ
アントのコトバを受容する姿勢が必要です。それは傾聴するというコトバでも適切では
ありません。コトバは生きていますから、その生きたコトバをカウンセラーは生きた体
で受け止めるのです。その時コトバはカウンセラーの体にしみいってくるのがわかります。
これが分からないのでは、単なる技術論的な癒しの方法に頼っているにすぎません。その
効果を全否定するつもりはありません。確かにそこには確実に効果はありますが、クライ
アントは前回も書きましたが、自分のコトバを自分で聴くことによって癒しを得るという
ことになっているのです。それでも十分ではあります。が、クライアントにさらに生きる
意味を再構築していただくためには、カウンセラーの積極的な同感のコトバが必要です。
たとえそれがずれていてもカウンセラーは強く同感のコトバを発することが必要です。
小さな過ちは後でも修正できます。クライアントにとって必要なのは、カウンセラーに
よる同感の言い換えたコトバの投げかけなのです。換言することによってクライアントは
違う気づきを得る場合もあります。これはあくまで、あいづちや、コトバのちょっとした
言い換えのことを言っているのではありません。コトバが生きた存在である、ということを
十分に意識した上でカウンセラーによって発せられるコトバなのです。もし誤解を恐れずに
言えば、所謂言霊というものに近い存在です。何度も言いますが、コトバは生きものです。
コトバによってこの世界は成り立っています。物質はコトバがまずあって、創り出された
ものです。コトバという人間の英知が、精神を病んでいる人を直せないわけがありません。
それはどんな精神薬より強力です。むしろ、ここまで来ると精神薬は補助的役割にしか過ぎ
ません。精神的な難病と言われている統合失調症であっても、このようなコトバの投げかけ
は有効です。とは言え私は精神科や心療内科を積極的に使います。私がこう書くからと
言って、精神科の先生方や心療内科の先生方と相容れないとお考えの方がいらっしゃる
かも知れません。そうではありません、私はむしろ精神科の先生と提携してクライアント
の治療に当たっているくらいです。しかし、精神科の先生は薬は適当なものを与えてくれ
ますが、最後の治療は私に委ねてきます。さて、私のコトバの力の意義づけは最後の結び
の段階にきました。
人間は幸福になるために生まれてきたのです。どのような障害をたとえ持っていよう
とも、生きて、よかった、と思える瞬時が幾度も訪れ、生の歓喜に満たされるのです。
それは精神世界の中で主に起こります。勿論物質的な喜びもあるでしょう。しかし、
たとえそれが物質的なものであっても、その奥には精神的な歓喜が必ず存在するのです。
私の観想は、精神は人間に幸せを与えるために与えられたありがたい存在なのです。健康
な体をつかさどるのは脳髄の一部の働きではありません。私が精神と呼んでいるのは、心の
ことです。人間は心の平安と歓喜を体験するために生まれてきたと言っても過言ではあり
ません。この事実を私たちは見逃してはなりません。私たちはややもすると、この真理を
見逃して、生が苦しく、生き難いものであるという認識に陥ることがあります。それが心的
障害です。心の病です。様々な病名がつきます。しかし、よく考えれば、心の病気に陥った
人々は、ご自分が、この世に生を受けた意味を自分で見失っているか、他者から無理やり
もぎ取られているかしているのです。そんな時、人間は自分が不幸だと感じます。しかし、
人間は不幸には生まれついていません。どのような障害を持っていても人間は幸せになる
ように生を受けます。自分のことが幸福でないと感じる人は、必ずといってもよいほど質の
悪いコトバを心の底で使っています。あるいは絶望的なコトバで自分を規定しているのです。
精神の病になってクライアントがカウンセラーのもとを訪れたとき、必ずと言ってよいほど、
クライアントは精神的なダメージを他者によって受けています。つまりは悪いコトバで自己
が傷ついているのです。何度も書きましたがコトバは生きものです。そして良いコトバを
使えばよいことが起こり、悪いコトバを使っている限りはその人には悪い現象があらわれます。
これは真理です。私はカウンセラーとして良いコトバを使います。相手の裡に切り込んで行く
場合もそうです。相手の傷を大きくするような切り込み方はしません。私はよいコトバで
クライアントの心をいっぱいにします。クライアントがそのことに気づいているかどうかは
問題ではありません。相談に見得た時、幾分暗い顔をしていたクライアントが私のコトバを
聴き涙を流し、帰り際には笑顔になっていることが私の一番の喜びです。そして、その時こそ
自分はカウンセラーという職業になってよかったとおもえるのです。そのためにわたしは
コトバの力、それも良きコトバの力を信じつつ毎日クライアントの方々と接しているのです。
長々とかきました。しかし、私の考えを明らかにするにはこれだけのコトバが必要であった
のです。お許し下さい。なお、Aさんの場合にはこのようなカウンセリングをしたというような
具体的なことは本屋に出回っている心理学関係の一般書に溢れていますから、そのようなことは
敢えて避けて書いたつもりです。たいへん抽象的なことしか書けず申し分けなく思っています。
(完)
