

コトバの力によって世界が変わる
1 コトバの力
人間は心によって生きているといってもよいでしょう。唯物論的な考え方によると、人間は
肉体、とくに脳からの指令によって生きているといわれます。しかし、それではその脳はどの
ようにしてできたのか、という疑問が生まれます。現代の科学の多くは進化論をもとにしてい
ますが、進化論も仮説であることを忘れてはなりません。私は人間は当初から人間であり、猿
やもっと単純な生命から進化してきたのではないと考えます。
人間は心をもった、ある種、霊的な存在です。こんなことを書くと、何か神がかり的に感じ
られる方もいるでしょうが、もし脳が人間を生かしているとするなら、それは「唯脳論」とも
いうべき唯物論的発想です。そうではなく、私たちがもともと霊的な存在であることにむしろ
気づく必要があるのです。私たちはもちろん肉体の塊ではありません。もっとスピリチュアル
な存在です。
人間にとって精神性が何より大切であるからこそ、コトバが意味を持つのです。聖書を信じ
る人も信じない人も、聖書のコトバには惹かれるものがあるはずです。「はじめにコトバあり
き」ということは、コトバによって何らかの絶対的な力がこの世界を創ったということを意味
しています。だからこそコトバには力があります。コトバの存在が人間の知性を形成している
のです。人間は何かをつくったり行動したりします。それは無意識になされることはないので
す。
もちろん潜在意識の存在は否定しません。むしろ潜在意識と顕在意識との両方からコトバは
発せられていると考えるのが妥当ではないでしょうか。ですから、潜在意識を問題にしようと
顕在意識を問題にしようと、その根本には抜き難い形でコトバが存在します。
ところで、人間は何によって癒されるのでしょうか。医師が医薬を使う場合、その効力が発
揮されるのは、やはりコトバによるところが大きいといえます。たとえば、医師が「この薬の
効果はわからないけれども、一度試してみよう」と言ったとしたら、患者は」どうなるでしょう
か。結果的に快復するかしないかは別にして、その医師のコトバに疑心暗鬼になった患者は、
確実に快復が遅れます。それはコトバが後ろ向きだからです。
逆に、医師が患者に「大丈夫ですよ、この薬を使えば絶対によくなりますよ」というコトバ
とともに治療にかかれば、患者の快復は間違いなく早くなります。それは単なる暗示の力では
なく、患者の心が医師の良きコトバを受け入れ、それが快復を早めるのです。
それでは、カウンセリングではどうでしょうか。さまざまなサイコセラピーを試した場合で
も最後に辿り着くのはコトバの力です。カウンセラーのコトバがクライアントに感応するの
です。したがって私は、カウンセラーは、クライアントの話すコトバを聞いているだけではい
けないと思います。クライアントが自分のコトバによる「気づき」を得るまでにたいへんな時
間とお金がかかってしまうからです。
これまでの心理療法は、そういったただ聞くだけのやり方が主流でしたが、今後はもっと異
なった方法論が必要ではないかと考えます。
2 気づきを与えること
カウンセラーは辛抱強く、クライアントに気づきを与えなくてはなりません。そのため、カ
ウンセラーはクライアントのコトバに一生懸命に耳を傾けます。これはカウンセラーにとって
最低の条件です。
ところが、最近のカウンセリングの傾向として、この「クライアントの声に耳を傾ける」と
いう点で大きな誤解があるように感じます。多くのカウンセラーが、ただただクライアントの
発するコトバを聞き続け、そのコトバに共感することだけに全存在をかけているかのようです。
それで成功することも確かにありますが、この方法論によってクライアントが立ち直っていく
ためにはたいへんな時間とお金とがかかります。
つまり、この方法論は、カウンセラーが共感することによってクライアントが自分で自分の
コトバに含まれる意味を発見できるようにし、その気づきによって立ち直らせようとするもの
ですが、大体の場合、クライアントは途中で自分の立ち直りを確信することを忘れてしまいま
す。「気づけば治っている」というスタイルです。それは、カウンセラーがひたすら相槌を
打ち、耳を傾けるだけだからです。
私の場合は、これとは少し違う方法をとります。カウンセラーは辛抱強くなければいけない
のは確かですが、クライアントの気づきをもう少しだけ積極的に援助するのです。この方法に
はちょっとした勇気もいります。クライアント自身の裡にその問題に対処できる力がまだ宿っ
ていないうちに、積極的なコトバをかけることによって、クライアント自身がまだ気づいてな
いことを呼び出すからです。
クライアントはそのために、比喩的にいうなら、心の中で悲鳴を上げることもあります。い
やコトバを換えていえば、意識的に悲鳴を上げさせるのです。
そんなことをすれば、クライアントが余計に不安感を募らせるのではないか、最悪の場合、
クライアントが自らの命を落としてしまうのではないかと反論されるカウンセラーの方もいら
っしゃるでしょう。しかし、私のいう積極的なコトバというのは、クライアントに対する深い
洞察力がまず根底にあってのもので、その後に共感があるということです。
洞察の深さによってコトバの強弱の度合は変わりますが、それでも、私の場合はあくまで
アグレッシブな共感の方法をとります。しかし、そうはいっても、自分の意見を押しつけてい
る印象を与えてはこの方法論も意味がなく、クライアントにとって単なるお説教になってしま
います。
カウンセラーが忘れてはならない鉄則は、クライアント自身が自分の力で自分の問題に気づ
いたという喜びや苦しみを味わってもらうことです。そうでなければ、カウンセリングとはい
えないでしょう。ここにこそ、コトバの力の意味が隠されているのです。
3 生きているコトバ
クライアント自身に気づいてもらうからこそ、それを辛抱強く待ち、聞き手に徹するのだと
反論されるカウンセラーの方もいらっしゃるでしょう。しかし、時間とお金のかかるカウンセ
リングですから、「待ち」の姿勢に徹することは結局、クライアントは何のためにカウンセリ
ングを受けているのかわからなくなる可能性があります。
もっといえば、何が問題で自分がどんな悩みを抱えているのかもわからないままに、時間の
経緯とともに治っていくというパターンは避けるべきだと考えます。
ここであえて主張したいのは、コトバは生きているという実感です。いろいろな要素をはぎ
取っていけば、何が残りますか?それはお金でもなく、肉体でもなく、もちろん服や下着で
もありません。最後に残るのは人間の心です。これだけが、人間を生かしている実感ですから、
この心に訴えかけることができれば、カウンセリングは必ず成功するのです。
それでは「心はどこにあるのか?」ということですが、どこにあるとも答えられるものでは
ありません。その姿は人間には確かめられないといったほうが正確でしょう。
心に限らず、体のどこかに異常が起これば、人はまず医者を頼ります。そのとき、重病がプ
ラシーボ(偽薬)によって治ることもあれば、本物の薬を使っても治らない場合もあります。
治癒率は、コトバの力によるところが大きく、もし、患者の心に響くコトバを届けることができ
れば、プラシーボでも治癒する場合が多いのです。
カウンセリングに来られる方々は、多くの場合、精神科や心療内科で精神薬をもらっていま
す。ただ、それを飲んでも症状がとれないため、結局カウンセリングを受けざるを得ないとい
うのが現実のようです。また、薬は副作用がきつい場合もあり、それだけ危険を伴います。
だからといって、精神薬を否定するつもりはなく、むしろそれが助けになる場合もあると思
っています。しかし、先ほどのプラシーボの話ではありませんが、薬はお守りみたいなもので
もあることも否定できません。
重度のうつ病の場合は別にして、たとえば最近はSSRI系の抗うつ剤が大流行で、それを
持っていないクライアントはいないぐらいです。私が認めるのは、この種の抗うつ剤とお守り
程度の精神安定剤です。
ほとんどの場合、精神科や心療内科では患者の話をじっくりと聞く時間がありませんから、
身体的に治癒させることしかできない現実もあるようです。そこで、カウンセラーの出番とな
るわけです。クライアントが薬に頼るかどうかは別にして、カウンセラーがクライアントにコ
トバを受容させることによって、病状は確実に改善していくのです。
4 カウンセラーの役目
人間はコトバによって希望を見出し、生き生きと生きることもできれば、反対にコトバによ
って死さえ選びとることもできます。コトバは人間の生命を左右する力を持っている、といっ
ても過言ではないでしょう。
たとえば、精神力が弱まっている場合に自殺を試みる方がいます。そのことによって亡くな
った方々に確かめる術はありませんはありませんが、一命をとりとめた方々から聞いた話によれば、
死の淵にいるとき、誰もが必ずコトバによって自分を納得させ、自分の行動として実行しよ
うとするのです。ここには、マスコミの報道などによく見られる、咄嗟に自殺という行動をと
った、ということは存在しない、とあえて仮説を立ててみたいと思います。
不幸にも人間が自分の意志によって死を選択する場合、自分の存在を否定するコトバを自分
で発しています。それが自殺というもののあり方であると定義しておきたいと思います。
カウンセラーは意義ある職業ではありますが、怖い仕事でもあります。カウンセラーという
と「癒し」というコトバがすぐに想像されるようですが、私に言わせれば癒しの部分があるに
はありますが、それ以前にカウンセラーはクライアントとコトバで格闘しています。クライア
ントがカウンセラーのコトバの領域に入ってきたとき、初めて癒しという余裕のある表現をし
てもよい状況が生まれるのです。
カウンセリングは、コトバのバトルです。そして、そのコトバがクライアントの心に到達し
ない場合、カウンセラーは敗北したことを認めなければなりません。敗北は多々ありますし、
カウンセリングの場とはそういう厳しいコトバのやりとりの場でもあるのです。
もう少しよく考えてみれば、人間の世界はコトバによって何もかもができ上っているので
す。何も問題が起きない場合はそのことに気づかないだけです。三次元的な空間にある物質の
世界で私たち人間は生きていると思っていますが、私はそうは考えません。
もし人間が三次元的な世界観しかもってないないとすると、人間はコトバによって創造した世
界観よりも、まず物質的なことのほうが生の優先順位としては高いことになってしまいます。
そういう考え方の人たちが多いですが、この発想に立つと世の中がつまらなく、退屈になって
きます。そして、精神に異常をきたすことが多くなってきます。
昨今、これだけ精神の病を抱える人が多くなったのは、必ずしも世の中の仕組みが厳しくな
ったことだけにその原因があるのではないのです。それよりも物質的な価値が高まり、精神性
なるものの価値が見捨てられていることによるのです。つまりは心の存在が軽視されていると
いえるのです。
カウンセリングは、カウンセラーとしての人間存在とクライアントという人間存在との間で
交わされる心の対話です。この対話をどれだけ有効に働かせることができるかどうかが、カウ
ンセラーの力量であるのです。
5 コトバの裏側
コトバによる対話とは、心と心のぶつかり合いです。
カウンセラーはややもすると聞き手だけにまわっている受け身の存在のようですが、実はそ
うではありません。確かに現象としてはそういう場面が多々ありますが、実のところはカウン
セラーの側では、クライアントのコトバをいろいろな角度から瞬時に分析しつつ聴いています。
コトバはもちろん発せられた言葉どおりではありません。コトバには隠された意味もあります。
それを見抜けないカウンセラーはいません。私のようにアグレッシブに切り込んでいくカウン
セラーなら、さらに過酷な洞察力を必要とします。
極端にいえば、クライアントが明るい希望に満ちたコトバを発しているときでも、もしそこ
にうつ症状があれば自殺の危険があることを考慮しないといけませんし、逆に「死にたい」
というコトバを発していても、その裏には生に対して強い執着を持っているクライアントも存
在しています。
私はあえて、クライアントの具体的な症例を出さずに書いています。なぜなら、症例は参考
にはなるものの、クライアントによってそのケースはさまざまで、一つに括って対応すれば間
違いにつながるかもしれないという危惧があるからです。
たとえばうつ症状のあるクライアントを例にあげ、それをカウンセリングの一般論として書
いてしまうと、個々別々のクライアントのコトバの裏に隠された真実の姿が見えてこない恐れ
があります。もちろん、うつ症状の人にしてはいけないことなどが一般論としてあるのは確か
ですが、それよりもくらいあんと一人ひとりの成育歴の中に隠れた原因を見逃さないように
しなければなりません。
6 心に響くコトバはひとりひとり違う
カウンセラーにとって欠くべからざる課題は、たとえばなにがしかの病名がつけられていた
としても、あくまで、目の前のクライアントは世界にたった一人しかいない一個の人間として
視なければならないということです。
たしかにうつ症状がでれば、精神科や心療内科では、同じ種類の、あるいは同系列の薬が投
薬されます。しかし、カウンセリングの場合は、一人ひとりのクライアントを傾向などによっ
て分類することはできません。その場、そのときに出会ったクライアントは、ほかの誰でもな
い、目の前にいる一個の人間なのです。ですから、カウンセラーは目の前のクライアントと丁
寧に向き合います。病名で括って、同じコトバを投げかけるようなことは決してありません。
だからこそ、ひとつずつのコトバを深く洞察しながら投げかけるのです。
そうでなければ、私のように、時にクライアントに切り込んでいく方法を使うカウンセラー
にとっては危険なのです。コトバの使い方によっては、相手は深く傷ついて帰るということにもな
りかねないからです。
残念ながら、私もそういう失敗をしたことが二度ほどあります。しかし、ほとんどのクライ
アントは来談の際と帰るときでは、必ずその表情が変わっています。カウンセリングの後、ク
ライアントの顔には笑みが浮かんでいます。あるいは、感極まって涙を流しています。もちろ
んその涙は傷ついた涙ではありません。すっきりとした涙であり、帰り際、それは喜びの涙に
変わっています。
私は何か特殊な才能を持っているわけではありません。ごく普通の人間に過ぎませんが、あ
えてひとつ告白しておくなら、私は過去における自殺未遂者ではあります。私が自殺を遂げよ
うとしたのは、気質的なものではなく外部的な要因によるものでした。奇跡に近い助かり方を
しましたので、それはかえって人間の生死の意味を深く考えるよき機会になりました。
私はコトバを投げかけますが、決して強い調子で投げかけるのではありません。コトバはた
ぶん小鳥の羽のようにクライアントに届いていくような感じでしょう。強いコトバを使うとき
も、クライアントには印象としては同じように届いているはずです。
もうひとつ言えることは、カウンセラーはクライアントをよく観察し、できるかぎりクライ
アントと同じ視点に立ってコトバを発しなければいけないということです。上からコトバを投
げかけると、クライアントは恐れます。また、心を開いてはくれません。クライアントと同次
元のコトバを投げかけなければなりません。
7 沈黙というコトバ
クライアントにコトバが通じない場合はどうなるのでしょうか。それはクライアントが、私
のコトバを拒否している場合であり、そのコトバを受容できない状態にあるということです。
そのときは、私は多くは喋りません。沈黙というコトバがあるからです。沈黙というコトバに
よってクライアントは黙っていられなくなります。そして、ぼそぼそと話し始めます。あまり
うまく説明できず、事実を羅列しただけであっても、カウンセリングにとっては大きな収穫と
いえるでしょう。
ときに、クライアントはカウンセラーに対して、ある種理不尽なコトバを返すこともありま
す。きちんと筋道立てて話せないこともあります。そうした場合、カウンセラーはクライアン
トのコトバを紡ぎ合わせていく作業が必要になります。
また、その場ではクライアントのコトバを集約し把握することまではできないため、次の
機会を待つことになります。そのときまでカウンセラーは考え、待ちます。しばらくカウンセ
ラーのもとを離れても、クライアントは必ず戻ってきてくれます。
クライアントがつらくてしかたがないのは、自分の課題を課題として認識できていないから
です。そこでカウンセラーは、その課題を本人に認識させるべくコトバを発するわけですが、
現状を認識できていないクライアントとはうまく噛み合わず、平行線を辿る状態が続いてしま
います。だから、クライアントにも、その平行線の状態に気づいてもらうための時間がどうし
ても必要になります。
そして、その平行線の状態から、クライアントは必ずカウンセラーのコトバの領域にまで辿
り着いてくれます。そう信じることができなければ、カウンセラーという重くて時間を要する
仕事はできません。カウンセラーにとって最も必要な要件は、「忍耐力」と「受容力」である
といっても過言ではないでしょう。
8 コトバの普遍化
世の中にはコトバを発することができない方もいますが、その方々も、それに代わる何らか
の手段で意思を伝えています。また、コトバは声に出して使う以外にも、手紙やメールやファ
ックスといった文字の状態でも、その効果を発揮します。
私が問題にしているのはコトバというものの本質です。
「良きコトバ」は相手に必ず深く浸透していきます。コトバが深く浸透すると、クライアント
の心に鬱積していた苦悩や哀しみなどのマイナスの問題を表面に出し、顔色もよくなったり
します。そうして、クライアントは自分のコトバでカウンセラーに語りかけてきます。
それは単なる対話の効力ではなく、クライアントが「自分で発したコトバそのものを、自身
で聴きとる」という一連の行為によって癒しが始まっているということです。
ということは、単なる聞き手にまわっているカウンセラーにおいても、何らかの成果が現れ
るということです。しかし、ここではまだ、クライアントは自身のコトバを自分で聴くことに
よって自分で治癒していくという過程を経ているだけのことです。それでよいという考えのカ
ウンセラーの方もいらっしゃるでしょうが、私は、それだけでは半分の成果しか期待できない
と思っています。
「クライアントが自身のコトバを自身で聴きとる」。それは原初的な気づきであり、当然、そ
ういう気づきには限界があります。その原初的なコトバの表現を洗練させるのが、カウンセラ
ーの役割です。
クライアントのほうから整理した内容のコトバが出てきたら、そのコトバをさらに普遍化さ
せていく作業が必要です。クライアントのコトバはあくまで個別的な事柄に終始するからです。
それを普遍化することによって、異なった場面における癒しの方法を教えることができるはず
なのです。
私が切り込むのは、この普遍化に関わる部分です。私もプロのカウンセラーですから、クラ
イアントのコトバを遮ってまで心の底へ割り込んでいくことはしません。それはある場合は危
険なことさえありますから。繰り返していえば、クライアントのコトバを普遍化するためのノ
ウハウがあるのです。
クライアントのコトバを普遍化させるには、カウンセラーが心を全開にしてクライアントの
コトバを受容する姿勢が必要です。それは傾聴するというのとも違います。コトバは生きてい
ますから、その生きたコトバをカウンセラーは生きた体で受け止めるのです。そのとき、カウ
ンセラーはコトバが自分の体にしみいってくるのがわかります。
これがわからないのでは、単なる技術論的な癒しの方法に頼っているにすぎないことになり
ます。もちろんその癒しの効果を全否定するつもりはありません。そこには確かに効果があり
ます、前述したように、クライアントは、自分のコトバを自分で聴くことによって癒しを得る
ことができます。それでも十分ではあります。
ですがクライアントがさらに生きる意味を再構築していくためには、カウンセラーの積極
的な同感のコトバが必要です。たとえそれがずれていても、カウンセラーは強く同感のコトバ
を発することです。小さな過ちは後でも修正できます。
クライアントにとって必要なのは、自分の発したコトバをカウンセラーによって言い換えて
もらうことです。同じ内容のことを別のコトバに換えることで、クライアントは新たな気づき
を得る場合があります。これは単なる相槌や、ちょっとした言い換えのことを言っているので
はありません。「コトバは生きた存在である」ということを十分に意識した上で発せられるカ
ウンセラーのコトバなのです。
何度も言いますが、コトバは生きものです。コトバによってこの世界は成り立っています。
物質は、コトバがまずあって創り出されたものです。コトバという人間の英知が精神を病ん
でいる人を治せないわけがありません。それはどんな精神薬より強力です。クライアントの理
解が進んだ場合は、むしろ、精神薬は補助的役割にしか過ぎません。
精神的な難病といわれている総合失調症であっても、このようなコトバの投げかけは有効で
す。私は精神科や心療内科を消極的に見ています。といっても、精神科や心療内科の医師が相
容れない存在というわけではありません。むしろ私は、精神科の先生と提携してクライアント
の治療に当たっているくらいです。精神科の医師は、薬は適当なものを与えてくれますが、最
後の治療は私に委ねてきます。
9 良いコトバ・悪いコトバ
人間は幸福になるために生まれてきます。
たとえどのような障害を持っていようとも、生きていてよかったと思える瞬間が幾度も訪れ、
生の歓喜に満たされるのです。それは主に精神世界の中で起こります。もちろん物質的な喜び
もあるかもしれませんが、たとえそれが物質的なものであっても、その奥には精神的な歓喜が
必ず存在するのです。
精神は人間が幸せを感じるために与えられた、ありがたいものです。私が「精神」と呼ぶの
は、心のことで、人間は心の平安と歓喜を体験するために生まれてきたといっても過言ではあ
りません。このことを私たちは忘れてはなりません。
私たちはややもすると、この真理を見逃して、生は苦しく、つらいものであるという認識に
陥ることがあります。それが心的障害です。心の病には、さまざまな病名がつきます。しかし、
よく考えれば、心の病に陥った人々は、ご自分が、この世に生を受けた意味を自分で見失っ
ているか、他者から無理やりもぎ取られているかしているのです。
そんなとき、人間は自分が不幸だと感じます。しかし、人間は不幸には生まれついていませ
ん。どのような障害を持っていても人間は幸せになるように生を受けます。自分のことが幸福
でないと感じる人は、必ずといってもよいほど質の悪いコトバを心の底で使っています。ある
いは絶望的なコトバで自分を既定しているのです。
クライアントが精神の病を患ってカウンセラーのもとを訪れたとき、必ずといってよいほど、
クライアントは他者から精神的ダメージを受けています。悪いコトバで自己が傷ついている
のです。
コトバは生きもので、良いコトバを使えば良いことが起こり、悪いコトバを使っている限り
はその人には悪い現象があらわれます。これは真理です。
私は、カウンセラーとして良いコトバを使います。相手の裡に切り込んでいく場合もそうで
す。相手の傷を大きくするような切り込み方はしません。私は、良いコトバでクライアントの
心をいっぱいにするよう心がけています。クライアントがそのことに気づいているかどうかは
問題ではありません。相談にみえたとき、幾分暗い顔をしていたクライアントが私のコトバを
聴き涙を流し、帰り際には笑顔になっていることが私の一番の喜びです。
そして、そのときこそ私はカウンセラーという職業になってよかったと思えるのです。その
ために私はコトバの力、それも良きコトバの力を信じつつ毎日クライアントの方々と接してい
るのです。
10 カウンセリングの現場と日常の言葉
カウンセリングの現場では、クライアントの状況を把握するために、非常に注意深く考えら
れたコトバを使わなければなりません。クライアントの状態は、意図的に使われたコトバの力
によって段々と明らかになり、事の本質が見えてきます。その意味では、カウンセリングにも
言霊という概念があてはまるのかもしれません。
これに対して、日常語(ふだんの生活の中で使われている言葉)というのは、カウンセリン
グに存在するような意図されたコミュニケーションの理論と実践とがいつも意識されている
ものではないようです。元来、日常は人間の無作為の行動によって形成されています。ですか
ら、日常会話はしばしばディスコミュニケーション(意思疎通がはかれない状態)に支配され
ます。昨今、コミュニケーションの大切さについて積極的に語られるのは、こういう事情がそ
の一つとしてあるからでしょう。
カウンセリングにおいても、カウンセラーは日常語を使って話してはいますが、それは意図
的に使われたコトバです。したがって、カウンセリングの現場は非日常的な空間なのです。カ
ウンセリングが不成功に終わる大きな要因の一つに、カウンセラーとクライアントがディスコ
ミュニケーションに陥ってしまうことがあります。カウンセラーが非日常の世界から発したコ
トバと、クライアントが自らの日常から発した言葉が、噛み合っていないと考えられます。
日常では基本的に特殊な言葉を使いません。しかし、日常生活の中でとくに意識せずに使っ
ている言葉を磨く、つまり意識的に使うことによって、その人の人格が変わってくる可能性も
あります。日常会話でも、より意図的に言葉を選んで発するべきです。もちろん、いかに意識
して言葉を使ったとしても、ディスコミュニケーションはしばしば起こり得ます。しかし、デ
ィスコミュニケーションを重ねるうちに、日常語が磨かれていくのもまた事実です。