人物紹介
藤原頼長(ふじわらのよりなが)
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寛仁4年(1120年)、摂関家に生まれる。関白・藤原忠実の次男。母は土佐守藤原盛実の娘。兄は関白・藤原忠通で、兄に実子がないため、1125年にその養子となる。幼名は菖蒲若。
頼長は学問に精進し、膨大な和漢の書を読破し、「日本一の大学生、和漢の才に富む」とその学識の高さを評された。また、実務能力にも長けていたため、朝廷での昇進も早く、若干17才で内大臣まで昇り、やがて、実質的に朝廷内の執政を握る。
一方で、何事にも妥協を知らない性格で、自他ともに厳しいことから、「腹黒く、よろずにきわどき人」とも評された。
その頃、後白河法皇の跡を継いで院政をしいた鳥羽法王が権力を握り、摂関家は衰え、往年の道長の頃の面影は無かった。
父・忠実は摂関家の再興のために、温厚な兄・忠通よりも、弟の頼長を重用し、また偏愛した。後年、兄・忠通に実子が生まれ、兄弟の間の関係が悪くなる。
父・忠実は関白を頼長に譲らない忠通の態度に業を煮やし、1150年、源為義、源頼賢の兵を率いて忠通の管理する東三条邸を襲って、氏長者の印たる朱器台盤を頼長に渡した。これにより、頼長は摂関家の氏長者となり、内覧という地位で執政に当たることになった。
頼長は、腐りきった朝廷内を粛清し、故事を復興して摂関政治の再興に尽力したが、その激しい性格のために政敵を多く作り、やがては、権力者・鳥羽法皇からも疎まれるようになる。
1155年、近衛天皇が崩御し、兄・忠通の推す後白河天皇が即位した。その折、頼長が近衛天皇を呪詛したとの噂がおこり、頼長は内覧を停止された。
その翌1156年、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が起こり、頼長は政権奪取を図る崇徳上皇と行動を共にして、源為義、平忠正らの武士を使って挙兵した。一方、後白河天皇も源義朝、平清盛らを集め、7月11日両者は激突した。戦闘は数に勝る天皇方の勝利に終わり、頼長は流れ矢が眼にあたり重傷を負い、その怪我が原因で落命した。享年37歳。
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小説紹介
『悪 左 府』 藤田 唯
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あらすじ
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摂関家に生を受け、次期権力者となることを約束された若き内大臣・藤原頼長は、近衛天皇の即位の式典を取り仕切るなど朝廷の実務をこなす一方で、その類稀な学識を更に深めるために学問の研鑚に励んでいた。
彼は、やがて、養女・多子を近衛天皇の皇后とし、外戚となって摂関を継ぎ、院政のため力を失った家の権力再興を図ろうとした。
ところが、鳥羽法王の皇后・美福門院一派は、頼長の激しい性格を嫌い、兄・忠通と謀って頼長失脚を画策する。
左大臣となった頼長は畏敬の念を込めて「悪左府」と呼ばれた。
が、行き過ぎた政策のため、人望を無くした彼は近衛天皇と鳥羽上皇の相次ぐ崩御で、足場を失ってしまう。
即位した後白河天皇は、頼長の再起を嫌い、邪魔な存在である兄・崇徳上皇と共に頼長を完全に抹殺しようともくろむ…。
保元の乱における藤原頼長の役割については、時代によっても評価の違うところである。果たして、頼長は保元の乱を起こした悪の元凶なのか。
また、悪左府と恐れられた頼長だが、人となりはどうだったのだろうか。
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目次
1.ほうき星
2.入内(じゅだい)
3.内覧
4.執政
5.予言
6.呪詛(じゅそ)
7.保元の乱
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