人物紹介
細川頼之(ほそかわよりゆき)
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細川氏は足利氏の一門である細川氏の武将として尊氏に従い、南北朝の動乱を戦ってきた。元徳元年(1329年)生まれの細川頼之も、若年の頃は、中国・四国の南朝方を平定するため、各地を転戦した。
成立したばかりの室町幕府は不安定で、その上、守護大名達が我が物顔に振舞っていた。
幕府の管領・斯波義将が佐々木道誉らの策謀で失脚すると、死に瀕した2代将軍足利義詮は、息子・義満の後見として、頼之を召還し、管領に就任させた。
頼之は就任当時11歳の3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に尽力する。頼之の執政は、内政面では倹約令など法令の制定、公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安半済令)を施行するなど、幕府の安定化を図るものだった。
また、禅宗に干渉するなど宗教界をも支配下に置くべく尽力し、南朝対策では、南朝の武将・楠木正儀を寝返りさせることに成功した。
しかし、禅宗界の反発や政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、南朝の反抗などで執政が次第に難しくなり、やがて、1379年(康暦元年)、政変が起こり、細川頼之は失脚を余儀なくされた。
その後は、成人した将軍・義満が執務を取り、幕府は安定へと急速に向かっていく。
10年後の1389年(康応元年)の義満の厳島神社参詣の折、頼之は船舶の手配などに尽力し、讃岐国の宇多津で赦免された。1391年、斯波義将が管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京する。養子の細川頼元を管領に就任させ、頼之は政務を後見し、宿老として幕政に復帰した。
1390年(明徳元年)、明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦い、功績を上げた。
しかし、1392年に風邪をこじらせ重態となり、3月に死去、享年64歳。
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小説紹介
『海 南 行』 藤田 唯
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あらすじ
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南北朝時代、足利氏の分家である細川一族は多くの戦功を上げ、尊氏の信用を勝ち得ていた。
一族の一人・細川頼之は、父・頼春の戦死以後、幕府の京奪還に尽力し、父に代わって阿波守護として幕府に仕えることになった。
その後、頼之は将軍・尊氏から中国平定を命じられ、それに功があり、次第に頭角を現して行く。
折から横暴な守護大名達が、自らの利益を求めて足の引っ張り合いをしていた時期であった。細川氏の棟梁である従兄弟の氏清は、その渦中に巻き込まれ失脚し、南朝に走ってしまう。頼之は清氏を討ち、細川家の中でも中心的な存在になった。
病床の二代将軍・足利義詮は、幼い息子・義満の後見に頼之を起用した。義詮は「汝に一子を与えん」として、頼之に義満を託して逝った。
感激した頼之は、義満に我が子以上の愛情を注ぎ、立派な将軍となるべく教育する一方で、自らは管領となって、不安定だった室町幕府の基礎固めに取り組み始めた。
頼之の登場で、幕府の基礎も固めら、彼は「名執事」と賞賛され、彼の政治は人々に歓迎された。
しかし、頼之による執政が長く続くにつれ、反発も強まる。特に、禅宗と旧仏教との確執から起きた南禅寺楼門事件や、楠木政儀を降伏させ登用した南北朝問題などの失政で、多くの守護大名などから批判の声が上がる。
やがて、義満が成長し、そろそろ頼之の庇護下から抜けて独り立ちしたいと望み始めると共に、反頼之の勢力も幕府内外に広がっていく。頼之は、長期政権に胡座をかき、執政に失敗した無能な管領として、ついに失脚を余儀なくされた。
義満から京追放の命令が下された日、頼之は「海南行」という漢詩を残して、領国・讃岐へと去った。その漢詩の本当の意味とは。
それから十年後、将軍・義満は、頼之を再び呼び寄せ、頼之は幕政に返り咲くことになる。
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目次
第一章 研鑽の章
第二章 勉励の章
第三章 隠棲の章
第四章 帰任の章
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