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3.『郭公と葦雀』  足 利 基 氏

 人物紹介
  足利基氏
(あしかがもとうじ)

基氏自筆
 足利基氏は、暦応3年(1340年)生まれ。足利尊氏の次男、幼名は亀若丸。初代鎌倉公方。
 成立したばかりの室町幕府は、将軍・足利尊氏を弟の直義が補佐して、ようやく軌道に乗り始めたかに見えた。
 ところが、兄・尊氏の周辺に新しく台頭した勢力が集り、また弟・直義の元に保守勢力が終結して対立し、結局、幕府を二分して、血を分けた兄弟が戦うこととなった。観応の擾乱である。
 観応の擾乱が起こると、父の尊氏は鎌倉にいた基氏の兄・義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、1349年(正平4)に次男である基氏を鎌倉公方として下した。こうして、初代鎌倉公方が誕生した。
 戦いは2年に及び、戦場も、京から最終的には基氏のいる鎌倉へと移動した。
 基氏は父・尊氏と共に戦い、観応の擾乱は、結局、尊氏に下った直義の死で幕を閉じる。直義の死因は尊氏による毒殺ではないかとの噂も立った。
 乱後、尊氏はしばらく鎌倉に滞在して、鎌倉府が機能し、基氏による東国支配が可能となるように、東国の基礎を固めた。
 基氏は父の教えをよく守り、父上洛後は長年入間に出陣するなどして関東を支配し、やがて、南朝方の新田義興を滅ぼした。
 また、1361年には執事として基氏を補佐していた畠山国清の罷免を求められ、抵抗した国清を討つ。その後、上杉憲顕を関東管領に復帰させて上野・越後の守護としてた。憲顕は基氏の下で関東における足利氏の勢力を固めた。
 尊氏の死後、2代将軍となった兄・義詮は、はじめは将軍の地位を狙う存在として、弟・基氏を警戒していたが、基氏の殊勝な態度に晩年は心を許すようになる。
 ところが、基氏は急な病で1367年に急逝、享年28歳。
基氏の墓
 小説紹介
          (かっこうとよしきり)
   『郭公と葦雀』 藤田 唯

あらすじ
 郭公は自分で子育てをせず、葦雀の巣に卵を産む。そして、郭公の雛は葦雀の雛を蹴落とし、自分だけが葦雀の親に餌を運ばせて成長していく。
 南北朝の時代、室町幕府を開いた足利尊氏の次男・基氏は、十歳にして鎌倉公方となり、鎌倉に赴いた。基氏を補佐したのは、乳母親でもある上杉憲顕だった。
 室町幕府を開いた足利尊氏は、弟の直義と協力して、幕政の運営に当たってきた。尊氏は軍事面、直義が内政面を担当し、「二人将軍」と呼ばれた。
 ところが、尊氏の寵臣・高師直と、弟の直義との対立が原因で、観応の擾乱が起き、尊氏と直義の間で二度に亘り、全国を巻き込んだ戦いが繰り広げられることになる。
 基氏は、実父・尊氏に溺愛して育てられたが、一方で、直義の養子になっていたこともあり、また、養父である上杉憲顕が直義の股肱でもあることから、直義の影響も強く受けていた。従って、父と叔父との骨肉の争いは、幼い基氏にとっては、身を切られるような辛い戦いであった。
 結局、尊氏が勝利し、直義と憲顕は捕らわれの身となった。その後、父・尊氏の傘下に置かれた基氏が見たものは、父の命令で毒殺された叔父・直義の無残な亡骸だった。
 憲顕は、郭公と葦雀の話を持ち出し、暗に郭公である尊氏が葦雀である直義を殺した経緯とその必然性を話し、基氏とて、何時、叔父の直義と同じ立場に立たされるか分からなことを示唆する。
 その後、憲顕は領国に去り、基氏は一人鎌倉に取り残された。
 この時から、基氏の孤独な戦いが始まる。
 幕府と南朝、それに、直義の養子である直冬率いる旧直義党との三つ巴の乱戦の時代である。だが、基氏の生きる道は、父・尊氏と兄・義詮と手を携えて、幕府を守っていくしかなかった。
 基氏の成長を追いながら、基氏と憲顕主従の深い絆を横糸に、複雑な社会情勢の中で、南北朝を強く生き抜いた足利基氏の生涯を描いた。


目次
 一、鎌倉下向
 二、もう一人の執事
 三、観応の擾乱
 四、直義毒殺
 五、入間川殿
 六、国清追放
 七、鎌倉府確立

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