人物紹介
上杉憲実(うえすぎのりざね)
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上杉憲実は室町時代中期の武将。越後守護、山内上杉房方の3男。
応永26年(1419)、関東管領・上杉憲基の養子となり、憲基の死により、幼少ながら関東管領となる。
1428年、将軍足利義持が没し、その後、6代将軍に足利義教がくじ引きにより決定された。鎌倉公方・足利持氏は自らが将軍になれなかったことを不服とし、何かにつけて幕府に反抗し、隙あらば挙兵しようとした。憲実はそれを憂慮し、一貫して鎌倉と幕府との調停に努めた。
幕府は憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようしたため、義教との対抗姿勢を続ける持氏と、憲実の間には確執が生じるようになった。
1436年、幕府の分国である信濃での紛争に持氏は介入し出兵しようとしたが、憲実は信濃は鎌倉公方の管轄外であると諌め、出兵を阻止し、二人の関係は更に険悪になる。
1438年、6月に持氏の嫡子の元服の際にも、持氏は将軍の一字拝領を賜るというこれまでの慣例を無視して「義久」と名乗らせた。
持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は8月には鎌倉を出奔して領国の上野国平井に下る。持氏は憲実討伐のため派兵し、自らも出陣した。それに対し、幕府は持氏討伐の兵を下す。
10月、憲実は武蔵国分倍河原に着陣し、先鋒の一色・小笠原軍を破った。
一方、幕府軍に敗れた持氏は出家して永安寺に入った。憲実は持氏の助命と義久の関東公方就任を幕府に嘆願するが、義教はこれを許さず、憲実に持氏を殺すよう命じた。1439年、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した(永享の乱)。
乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し長棟と称した。1440年、結城氏が持氏の遺児を擁して挙兵する(結城合戦)と、幕府は憲実に復帰を命じ、憲実はやむなく出陣した。その後、憲実は再び隠遁した。
1441年、嘉吉の乱で足利義教が暗殺されると、幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるが憲実はこれを拒んだ。
1447年、持氏の遺児成氏が鎌倉公方になり、憲実の長男憲忠が関東管領に就任した。
この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いたとされる。1452年(享徳元)には大内氏を頼り長門国大寧寺で死去、享年57歳。
憲実は儒学に志篤く、足利学校の再興に関与た。
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小説紹介
『新永享記』 藤田 唯
『長棟記』 藤田 唯
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あらすじ (前半「新永享記」・「後半「長棟記」)
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(新永享記)
四代鎌倉公方・足利持氏は、関東武士の実力を頼み、将軍にとって代わろうと目論んでいた。折から、将軍・足利義持が後継を決めぬままに亡くなり、持氏は絶好の機会に恵まれた。ところが、幕府では僧籍にあった義持の弟・義教を還俗させ、六代将軍に就任させてしまった。しかも、将軍・義教は強硬な姿勢で独裁政治を開始した。ここに、持氏と義教、両者の間の深刻な対立が始まった。
やがて、将軍・義教は富士山遊覧すると言い出した。持氏と東国の豪族達に将軍の権威を示威するためである。反発した持氏は、これを無視することで抵抗しようとした。
時の関東管領・上杉憲実は、二人の間に立ち、関東の平穏のために持氏の暴走を押さえようと諌めた。そのため、持氏と間に微妙な間隙が生じ始めていた。
義教の富士山遊覧は、憲実の努力で何とか穏便に切り抜けることができたが、その代償として、将軍・義教は、憲実に対して、関東の覇権を匂わせ、ことある時は幕府に味方して持氏を討つよう確約させた。
その後も、持氏の周辺には、上杉家の支配を嫌う旧御家人勢力が集まって、持氏の義教に対する対抗心を煽動した。その度に、憲実は持氏を諌め、戦いの回避に勤めたが、両者の溝は徐々に深まっていった。
ついに、長男の元服を機に、持氏は義教との全面対決を決意した。同時にその成就のために邪魔な存在となる憲実暗殺を図る。
それでも、戦闘の回避を模索し続けた憲実だが、苦しみぬいた末、ついに、永享十年八月十四日、心ならずも自国・上野に撤退して、持氏に対して叛意を顕わにし挙兵する。
持氏率いる公方軍は初戦こそ勝利を収めたが、圧倒的な数を誇る上杉軍と幕府軍によって、降伏を余儀なくされた。
次第に追い詰められていった。憲実は持氏助命嘆願をしたが、義教の強い姿勢ため、主君を討たねばならなかった。
(長棟記)
永享の乱で、持氏を死に追いやった憲実は関東の覇者となった。だが、乱後の処理を終えると、彼は弟の清方に管領職を譲り、隠居して長棟と名乗り、伊豆の国清寺に隠遁した。
そんな折、持氏の遺児を奉じた反上杉勢力が結城合戦を起こし、将軍・義教の命令で憲実も鎮圧のために参戦した。結城城がようやく落城した後、憲実の懸命な助命懇願にもかかわらず持氏の遺児安王・春王は義教の命で殺され、末子・永寿王も同じ運命を辿ると思われた。ところが、嘉吉の乱が起きて、独裁者・義教が暗殺されたため、永寿王は奇跡的に一命を取りとめた。
その後、関東は上杉支配で安定を取り戻したが、しばらくして、関東管領・清方が急死し、憲実の息子・憲忠がその職を継いだ。
永寿王が元服して足利成氏と名乗り、鎌倉公方になったとき、憲実は全国行脚の旅に出ることにした。行脚の旅の空の下でも、常に息子の治める関東を心配し、その平穏を祈る憲実。
だが、その願いに反して、成氏は、上杉の忠告に従わず、幕府に反抗的な姿勢を見せた。そのため、成氏と上杉の対立は深まり、ついに両者の間に武力衝突が起きてしまう。憲実も行脚の旅を打ち切って尽力したが、彼の努力にも関わらず、関東に平穏が戻ることは無かった。
幕府は成氏を廃し、新たに将軍家の一族である政知を鎌倉に下向させ、鎌倉公方とした。が、成氏はそれに逆らい、古河の地で鎌倉公方を名乗った。その結果、関東には古河公方(成氏)と堀越公方(政知)という二人の公方が存在し、果てしの無い戦いが続くことになる。
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