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6.『妙音大臣』 藤 原 師 長

 人物紹介
  藤原師長
(ふじわらもろなが)

牛車
 藤原師長は、保元の乱を起した左大臣藤原頼長の息子。母は源信雅の娘。
 父の引き立てで若くして参議に列し、順調に権中納言にまで昇進したが、保元元年(1156)、保元の乱で父の罪に連座して土佐に流された。
 長寛二年(1164)、許されて帰京。後白河院に近臣として仕え、仁安元年(1166)、権大納言として復帰した。翌年大納言に昇格し、安元元年(1175)、内大臣に就任。治承元年(1177)には太政大臣となり従一位に叙せられた。
 しかし、同三年、平清盛が朝廷を占拠した際、大臣を解任され、再び尾張に流罪となる。
 この地で出家し、法名は理覚。
 藤原師長は、若い頃より箏や琴などの名手であった。後年は、それらに関する著『仁智要録』『三五要録』などを著わし、その説を妙音院流という。
 源博雅とともに平安朝雅楽の双璧と位置づけられ、楽聖と称されている。
基氏の墓

 小説紹介
         (みょうおんのおとど)
   『妙音大臣』 藤田 唯

あらすじ
 保元の乱が鎮圧されると、後白河天皇は乱に関係したものに厳しい処分を言い渡した。頼長の3人の遺児にも流刑が言い渡され、師長は土佐に流された。数年後、風の噂に兄弟の死を知った師長は失意のどん底に落とされたが、楽器のお蔭でなんとか生きる力を失わずにいた。
 師長が流されている間、平治の乱で信西が処刑され、同時に平家が台頭して、平清盛が殿上人になるなど世の中は動いていた。
 二条天皇の后・妹の多子や、妻の実家の働きかけで、やがて、師長は許され、京に戻ることとなった。この時、師長は、父の悲願だった摂関家の再興と、父を陥れた院政への挑戦を心の底に秘めていた。
 京に戻った師長は、仇である後白河上皇と運命的な再会を果たす。この日から彼は仇である上皇に仕えなかればならなかった。彼は、二条天皇が望む天皇親政に力を貸すが、天皇は望み半ばにして、突然夭逝してしまう。後白河上皇のお供で熊野詣でに出かけた師長は、上皇との話の中で、二条天皇が後白河上皇に殺されたことを確信し、天皇の無念を晴らすことを心に誓った。
 その後、師長は密かに後白河上皇の息子・以仁王らと謀り、藤原成親と弟の西光らを利用して、平家の力を削ぎ、また最終的には上皇の院政に終止符を打とうと陰で画策する。
 一方で、彼は表舞台においては、太政大臣にまで昇進した。
 この頃、上皇は大臣職を独占した平家に不満を抱くようになっていた。打倒平家に燃え焦る藤原成親と弟の西光らは、上皇にも近づき、師長の意見も聞かずに行動を起こしてしまった。結局、それが平家の知るところとなり、成親と弟の西光は処刑される。(鹿ヶ谷事件)
 また、1179年には、以仁王の挙兵を直前、平家は不穏な動きを掴んで、武力により京都を占領した。平家による公家の粛清が行われ、その結果、師長は尾張に流罪となった。
 摂関家の再興を望んで、上皇の引退を画策し、また力を持った平家を密かに追い落とそうと謀った師長だったが、結局、彼は何もできぬまま二度目の流罪を経験してしまう。
 この地で出家した彼は、以前からの念願を諦め、楽譜の編纂にのみ生きようと決意する。
 だが、その後も、以仁王の挙兵と死、平家の滅亡など、師長は世の動きに翻弄されることなった。
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