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8.『飄々と ─ある日の官兵衛─』 黒 田 孝 高

 人物紹介
  黒田孝高(くろだよしたか)

孝高像
 黒田孝高、天文15年(1546)11月29日生。
 官兵衛、如水、洗礼名はシオン。
 播磨・姫路城の土豪・黒田職隆の子。播磨・御着小寺政職の家老として仕え、1567年に家督を相続、櫛橋伊定の娘を正室に迎え、姫路城主となる。
 播磨の豪族は、山陽、山陰に勢力を持つ毛利氏に従っていたが、孝高は信長支持を説き、秀吉の中国制圧の先導役を務めて近隣諸勢力の懐柔を行った。織田家に臣従し、秀吉の配下として活躍。
 天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重の説得に行き、逆に捕縛され、一年間土牢に押し込められ、足を悪くする。
 秀吉の軍師であった竹中重治死後、軍師として、鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻め、毛利氏との和睦など、秀吉が天下統一に至るまでの補佐をした。
 天正17年(1589年)、家督を息子の長政に譲って隠居し、如水と名乗ったが、小田原征伐などに従事。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では五奉行の石田三成らとの確執があり、秀吉の怒りを買ったため、円清と号して出家、引退した。
 秀吉死後の慶長5年(1600年)、関が原の戦いに際し、長政を家康軍に属させた上で、自身は九州で兵を募り、旧領回復を試みる大友吉統ら西軍勢力と戦った。
 徳川政権が樹立すると、その後は政治に関与することなく、隠居生活を送った。慶長9年(1604年)、京都伏見の藩邸にて病死、享年59歳。
甲冑

 小説紹介
   『飄々と ─ある日の官兵衛─』
              藤田 唯

あらすじ
 秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛は、秀吉の中国遠征に従っている途中、寝返った織田の武将・荒木村重を説得すべく、単身敵城に乗り込んだ。だが、策略に嵌り一年間の幽閉生活を強いられた。そのため、彼は生死の境をさ迷い、どうにか救出された時には身体をすっかり壊していた。有馬温泉で治療するも、生涯、片足は動かぬままとなってしまった。
 それでも、官兵衛は決して屈することなく、不自由な身体で戦線に復帰し、それまで以上の活躍をする。
 有名な高松城の水攻めの際、官兵衛は、彼に心酔する黒田衆を率いて、堤防の造成などに当たり、天候にも味方されて高松城を落城寸前まで追い込んだ。
 そして、信長の死を聞いた時、天下人としての信長に疑問を抱いていた官兵衛は、「今こそ、行動を起こす好機です」と、秀吉に進言し、秀吉を天下人にすることに全力を尽くす。
 だが、権力者となった秀吉は、官兵衛の期待に反して、民衆のことなど省みない、傲慢な天下人となってしまった。官兵衛にとって、これは大きな誤算であった。
 そのため、官兵衛の気持は、秀吉からも政権からも離れ、新しい西洋文明やキリスト教などに向かう。
 特に、秀吉が晩年になって断行した朝鮮進出には積極的になれなかった。そして、軍師として再三渡航を命じられた彼は、石田三成などと対立した。
 やがて、秀吉が死に、徳川家康が関が原の戦いを起こしたとき、官兵衛は息子の長政を家康に従軍させた上で、自身は兵を集め、九州で大友氏らの西軍と戦った。巧く行けば、九州を平定し、その勢いで東上し天下を取ろうという計画である。しかし、それは、あくまで戯れの野望だった。
 関が原で、長政の功も手伝って家康が勝利すると、官兵衛はあっさり引退してしまう。
 戦国の世の統一という夢に向け、軍師として、その実現に尽力した官兵衛。飄々と生きた男の生き様を描く。

 『飄々と −ある日の官兵衛ー』 
              藤田 唯 CD版 定価1000円

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