人物紹介
坂上田村麻呂
(さかのうえのたむらまろ)
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坂上田村麻呂、天平宝字2年(758年)生。
坂上氏は祖父の犬養、父の苅田麻呂ともに武をもって知られ、田村麻呂も近衛府に勤務した。
陸奥国では蝦夷(えみし)との戦いが激化していて、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる日本軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂は、延暦11年(791年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられた。
延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して、翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)の遠征に成功。京に凱旋した。
翌年、胆沢城を築くために再び陸奥国に戻り、そこで阿弖利為(阿弖流為)と母礼ら五百余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らを許すことを主張したが、都の貴族は反対し、二人を処刑した。
田村麻呂は延暦22年(803年)には志波城を造った。
延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、三度めの遠征が予定されたが、桓武天皇が軍事費が国の財政を圧迫しているという意見を取り上げたため、征夷は中止になった。
その後、田村麻呂は参議に列し、大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。また、田村麻呂は清水寺を創建したと伝えられる。
平城上皇と嵯峨天皇が対立したとき、田村麻呂は上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし薬子の変では嵯峨天皇についた。
田村麻呂は弘仁2年(811年)5月23日に54才で病死した。
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小説紹介
(せいいたいしょうぐん)
『征夷大将軍』 藤田 唯
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あらすじ
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坂上田村麻呂は、戦勝祈願のため、蓼科山に参拝していた。彼は、桓武天皇の命を受け、「まつろわぬ人々」蝦夷の鎮圧のため、北へ大軍を進めている途中だった。
信濃に入ると、諏訪大社の大祝(おおはふり)である諏訪有員が彼を出迎え、一族をあげて遠征に従った。以前より田村麻呂に淡い恋心を寄せていた有員の妹・御射子は、白馬・隼を田村麻呂に送って戦勝を祈った。
田村麻呂の一行は北へと進む。
朝廷側は、数年前、征東大使・紀古佐美が10万の軍を率いて遠征したが、敵将・アテルイの反撃に合い大敗していた。そこで、延暦16年(797)、田村麻呂は征夷大将軍として大軍を発したのである。彼は、多賀城に入って、蝦夷鎮圧と東北経営に乗り出した。
ところが、新田柵の阿部麻呂が反乱を起こした。蝦夷の人々は朝廷から支配を嫌い、抵抗を続けている。阿部麻呂の乱は諏訪有員らの活躍で鎮圧したが、蝦夷平定は難しい課題だった。
田村麻呂は示威のため、大軍を率いて北上川を上った。途中、彼を襲撃するものがあり、御射子の白馬・隼が身を呈して田村麻呂を救った。賊は捕らえてみると、女であり、アテルイの姪メネピイというものだと分かった。田村麻呂は負傷した彼女に治療を施し、大切に遇した。始めは、蝦夷を弾圧する敵だと頑なな態度を取っていたメネピイだが、次第に田村麻呂の誠実さに惹かれていく。
江釣子のアテルイは次第に追い詰められていた。ここで負ければ、後は朝廷に帰順するか、蝦夷地に退くしかない。
ここで、田村麻呂とアテルイは、誰もが想像だにしていなかった行動にでた。メネピイの手引きで二人だけの話し合いの場を持ったのである。その結果、田村麻呂は大軍を撤収することとなった。両雄は無益な戦いを避けることで合意したのだ。
一度、都に凱旋した田村麻呂は東北経営のための城の必要性を説いた。天皇は彼の無理な申し出を認めてくれる。
さて、再び東北に戻った田村麻呂は、肝沢城を建設し、本格的な経営に乗り出した。蝦夷の人々に新しい産業を教え、病気を治療し、朝廷への帰順を勧めたのである。
田村麻呂の努力で、ついにアテルイやモレらも帰順することになった。喜んだ田村麻呂は、彼らのしかるべき官位を授けるべく、京へ同行させた。ところが、蝦夷と聞いただけで恐れを抱く貴族達の陰謀で、田村麻呂の留守にアテルイらは処刑されてしまう。その結果、蝦夷の人々の信頼を勝ち得て、彼らと共に歩もうとした田村麻呂の努力も苦労も水泡に帰していまった。
その後、田村麻呂は天皇の命で再度東北へ赴き、志波城を建設して経営に当たるが、桓武天皇の死とともに、職務に対する往年の熱心さを失ってしまう。
後年、田村麻呂は、孫を可愛がる好々爺として過ごし、また、文屋綿麻呂に東北の経営を託して逝った。
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