
また、日米開戦を決定的にした1940(昭和15)年の日独伊三国軍事同盟の調印にも、井上は命を張って反対を唱えた。この時、
井上は軍務局長であり、海軍大臣・米内光政、海軍次官・山本五十六とともに「海軍左派トリオ」として一致団結して反対を唱えた。
これも結局は、米内・山本・井上の「海軍左派トリオ」が軍政の中央から離され、新しい海軍首脳は国内外の圧力に抗しきれず、同盟は
調印されてしまう。
井上は日米開戦の直前まで反対の姿勢を貫いていた。1941(昭和16)年初頭、軍令部が「第五次海軍軍備拡充計画案」を完成し、
この予算などを話し合う首脳会議が開かれた。航空本部部長として出席した井上は、この内容説明を聞いて、たまりかねたようにこう発言
した。
「この計画案は、各艦艇をアメリカの何割かに持っていくという、アメリカに追従しただけの月並みなものだ。明治の頭で昭和の軍備を
考えているとしか思えない。こんなもので実際の対米戦争に勝てるはずがない」
この井上の言葉で、会議は流れてしまった。井上はそれから一週間後、「新軍備計画論」と題する建白書を、海軍大臣・及川古志郎大将
に提出している。ここで、日米開戦の見通しについて「日本が米国を破り、彼を屈服することは不可能なり」と断言している。その理由は
、アメリカの国土は広大であり、全土を攻略することは到底できない。また、アメリカ海軍を殲滅するということも非常に困難だからだ、
としている。
逆に日本は、アメリカに海上交通路を封鎖され、「屈することとなる危険」があり、アメリカからすれば、「(一)日本国全土の占領も
可能 (二)首都の占領も可能 (三)作戦軍の殲滅も可能」と井上は主張した。これらの予測は、4年後には全て現実になった。
海軍きっての知性を持ち、「カミソリ」と評された井上成美には、このままアメリカと戦争を始めても、「日本が勝てるはずがない」と
わかりきっていた。だから彼は決して日米開戦に至ることだけは避けようと努力を惜しまなかった。
また、彼の有名なエピソードに、海軍兵学校の校長時代のエピソードがある。1942(昭和17)年10月、井上は第四艦隊司令長官
の職を離れ、江田島にあった海軍兵学校の校長に転出した。戦時中のこうした人事異動は一種の左遷だが、井上は意に介さなかった。
彼はこの2年弱の兵学校校長時代に、大胆な教育方針を打ち出している。それは徹底した英語教育だった。当時、英語は「敵国語」とし
て学校教育でも軽んじられ、陸軍士官学校ではすでに開戦前から英語を入学試験科目から外していた。海軍兵学校でも井上の在職中、「英
語廃止」の議論が起こったが、この時、井上は「いったい何処の国の海軍に自国語しか話せない将校があるか。私が校長の職にある限り、
英語の廃止など絶対許可しない」と一蹴し、全生徒に英英辞典を持たせるほど、英語教育の徹底化を図った。井上は英語や数学などの普通
学を、軍事学よりも重んじていた。「勉学の妨げになるから」と、教官が実戦の話をすることまで禁じていたほどだったという。
そんなある日、江田島の海軍兵学校を、鈴木貫太郎大将が訪れた。鈴木は親子ほども年の離れている井上にこう言ったという。
「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、二十年後だぞ、井上君」
井上はそのとおりだと強く頷いた。
この二人は、戦時中ゆえに口には出せなかったが、この時すでに日本の敗戦を見通していた。壊滅的打撃を受けた日本を、二十年後に
復興させるのは、今兵学校にいる若者たちである。井上が周囲の反対を押し切り、英語などの教育に心血を注いだのはまさにこのためだ
った。
まもなく、鈴木は首相として、井上は海軍次官として、それぞれ終戦工作に奔走する。井上は米内のもとで、再び命を賭けた大事業に
挑んだ。それから1年後、米内・井上、そして高木惣吉ら海軍の終戦工作が実り、鈴木貫太郎内閣のもとで、ようやく日本は降伏し、平和
が訪れる。
ちなみに、井上は実戦指揮官としては、あまり優れてはおらず、開戦当初に第四艦隊司令長官に就任したが、ウェーク島攻略戦で駆逐艦 2隻が撃沈され、また1942(昭和17)年5月の珊瑚海海戦で、井上はアメリカ側とほぼ互角に戦いながらも、追撃戦が甘かったこと で激しく咎められている。
