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***言葉が出ない*** 子供の頃の私は活発というか、目立ちたがり屋の子供だった。 授業中、教科書をみんなの前で読むなんて、得意中の得意の子供だった。 だけど、小学校5年生のある日、読もうと思っても、初めの言葉が出てこない。 書いてあることは分かるのに、初めの一言を発音できない。 教室中が笑いの渦になった。 それから、言葉のひっかかりだけでなく、どもりなんかも出てきた。 そのうち、普段のおしゃべりの中でも、言葉が出にくかったり、ひっかかったり、どもったりするようになった。 普段はおしゃべりな子だったのに(今もか)人前で話すのが怖くなった。 初めて会う人とは、あまり話さないようになった。 授業中に教科書を読むように当てられるのが、嫌で仕方なかった。 |
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***初めての発作*** 最初にてんかん発作が起きたのは、中学1年の6月でした。 初めての中間テストのちょっと前くらい。 もうすぐ体育でプールの授業が始まるからと水着も帽子も買って、ゼッケン付けなんかも終わった頃だった。 気づいたら病院に居たので、何が起きたのかは全く分からないが、 お風呂に入ると、脱衣場で服を抜いて、風呂場に入った直後に発作が起こったらしい。 意識がなくなって、けいれんを起こしたとのこと。 慌てた母親は、急いで私にパジャマを着せ、救急車を呼んだそうだ。 救急車で運ばれている間の記憶はない。 発作自体は多分そんなに長くはないはずだから、発作が治まった後、眠ってしまったんだろう。 意識が戻ったのは、病院に着いてしばらくしてからだった。 とにかく今は、気持ちが興奮していますから、と、安定剤の点滴を受け、帰宅。 何が起こったのか分からない私に、「明日は学校、お休みしなさい」と母親。 初めての中間試験前だっていうのに。。。と思いながら、良く分からないけど翌日は欠席した。 前日救急車で運ばれた病院で、脳波やらCTやらを取られた。 その後、診察室には母親だけが呼ばれた。 私は待合室でマンガを読んで待っていた。 この時、「てんかん」と診断され、母はその場に座り込み立ち上がれない程のショックを受けたらしいが、 そんなことは私はしらない。 その後、私も診察室に呼ばれて、「学校のプールはやめておきましょう。プールの中で倒れたらキケンだから」 と、先生は言った。 そんな話しだけで、納得がいくはずがない。 その後、母親から遠回しな説明を受けたような気がするが、その時代、情報が足らなかったのか、 おしゃべりな娘にあまり何も言わない方が良いと思っていたのか、 なんせ、はっきりしたことは聞けなかった。 |
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***プールはダメ??*** でも、プールには入ってはいけないと医者に言われてしまったのだから、仕方ない。毎回見学。 暑いんだから、私だってプールに入りたい。 好きで休んでるわけじゃない。風邪ひいてるわけでもない。なのに、毎回見学。 でも、体育の先生は。 「見学も全員、水着に着替えること。」と言い放った。 風邪をひいて見学の人、生理で見学の人、まあとにかく水に入れない人、入りたくない人は良いけど、 一緒にプールに入りたくて仕方ない私には、苦痛以外の何者でもなかった。 一度も水に濡らすことのない水着を、毎回体育の授業の後には洗濯していた。 1学期も終わろうと言う頃。 体育の先生は私に言った。 「お前はプールのテスト受けてないから、点数付けられないな」 なんだと!!!!好きで入らない訳じゃない。なのに、なんでそんなこと言われなくちゃならないんだ! そんな反発が通るような体育教師ではなかった。 問答無用で、5段階で2がつけられていた。 出席点と、筆記試験の点数だろう。 プールの授業のある1学期と2学期はそんな感じだった。 夏休みと言えば、プールの宿題。 他の宿題やらプリントやらと一緒に、当然私にもプールカードが配られる。 部活の途中、プールの学年の子達は、楽器を置いて、「プール行ってきます」って抜けていくんだけど、 (これは宿題だから、部活よりも大事らしい) そうやって、同じ学年の子達をプールに見送るのが、ものすごく辛かった。 その間、私は後輩達とパート練を続けるのだけれど、 そんな時間はやっぱり長く感じる。 暑くて仕方ない夏休み。プール上がりの濡れた髪で部活に戻ってくる仲間達。うらやましかった。 一度、どうしてもプールに入りたいとダダをこねて、家族でプールに行ったことがあった。 私がプールに入れる手段はこれしかなかった。 憎らしいスクール水着は着たくないと、その為だけに水着を買ってもらった。 プールに居る間、ずーーーーーっと母親と一緒に流れるプールにいた。 スライダーをやりたいと言うと、弟と一緒に上がっていき、母親は心配そうに下で待っていた。 こんな状態でも、水に入りたかった。 今思えば、ばかばかしい話し。でも当時、てんかん=プールはダメっていうのは、定番だったらしい。 水に対する憧れだけが強くなっていく。 友達とプール。友達と海。 そんなこととは無縁だった。 |
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***一人で出歩けない*** 親が心配してというか、びびって、私は一人で出歩けなくなった。 一人になるのは、エレクトーンのレッスンに行くときと、塾に行くときくらい。 それでも、ちょっとでも帰りが遅くなると、母親が迎えに来た。 私だって、友達と寄り道くらいしたいのに。 家では、風呂に入るのは母親と一緒でなくてはいけないことになった。 これは医者からの指示なので、仕方がない。 でも、お年頃の娘。 嫌に決まってる。 それから、寝るのも母親と一緒。 これも医者からの指示。 誰も発作の現場を見ていないので、そうするようにとのことらしい。 一人になれるときがなかった。 私は一人にはなれなかった。 |
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***自然教室で*** 中2の自然教室。行くか行かないかで、先生と親とで話し合いが持たれたらしい。 でもまあ、行けることになった。みんなと同じように行動することになった。 でも、長距離のハイキングをした日の夜、1年振りに発作を起こした。 みんなとお風呂に向かったけれど、途中で気分が悪いから一人で部屋に戻るね、と 部屋に戻った後の事らしい。 みんなが風呂から上がって部屋に戻ってきたとき、リュックの前で倒れていたらしいから。 意識が戻ったら、社会と体育の女の先生が私の枕元に座っていた。 廊下では教頭先生が、「酸素ボンベ!!!」などと、わけの分からないことを言って走り回っていた。 少しして落ち着いた私を連れて、担任の先生は私の自宅に電話をかけに行った。 「明日、一足先に帰らせましょうか?お迎えに来ていただけますか?」 勝手に決めるな! 私は先生から受話器をもらい、母親に「みんなと一緒に最後までいるから。迎えに来なくていいから。」 と言った。なんとかこの意見は受け入れてもらえた。 |
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***相変わらず診察は母だけ*** 最初に行っていた病院の脳波の機械は古いもので、頭に付ける電極が細い針だった。 これが痛い。 頭全体に付けなくちゃ検査できないんだからたまらない。 毎度、病院に行く前にマンガを1冊買ってもらって、帰りにゴハンをご馳走してもらう約束で、検査に行っていた。 そのくらい嫌だった。 そして、相変わらず診察室に入れるのは母だけ。 中でどんな話しをしているのか、全然しらなかった。 このころの脳波がどんな形状だったのか、今はちょっと知りたい。 薬はまだ飲んでいなかった。様子を見ましょう。2回も発作が起きているのに。 |
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***主治医変更*** いつも内科でお世話になっている先生にこれらのことを話したら、 「それでも薬を飲まなくても良いって言うのはおかしいから、市立病院の先生を紹介してあげるから」 と、市立病院の小児科に神経外来で来ていたS平先生を紹介された。 今だにおつきあいさせていただいている、私にとって、神様みたいな先生。 脳波は取ったけど、「もう少し様子を見てみましょう」と、まだ薬は処方されず。 |
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***市民祭り*** 友人と市民祭りで歩いている途中で発作を起こした。 気づいたら、市立病院の処置室で寝ていた。 あちこちに擦り傷ができていて痛かった。 天気が悪かったので、来ていた服はどろどろだった。 翌日は学校をお休みし、翌々日に学校に行くと、変なウワサが流れていた。 「あいつ(私)はジャガバタをのどに詰まらせて救急車で運ばれた」 突然倒れて救急車で運ばれた事に納得のいく答えの出せなかった同級生達がおもしろがって言い始めたこと。 どうせなら、そのウワサがホントの方が良かった。 これが3度目の発作であることの方が、どんなに嫌なことか。 |
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***薬*** 市民祭りでの発作で確定された。 薬を飲むことになった。 最初の発作は、初めての中間テスト前で緊張していただろうし、 2度目の発作は、自然教室に行っている先のことだったけれど、 普通に歩いているときに発作が起きてしまうのでは、薬を飲まなくちゃいけないね。とのこと。 ハイセレニンを朝・夕1包ずつ飲むことになった。 この薬、なぜか飲んだ後気持ち悪くなる。 吐き気というか、ムカムカというか。 朝、家を出るのがギリギリになりがちで、学校にも遅刻ギリギリというのが多かった。 それでよく、廊下の雑巾掛けをさせられていた。 |
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***高校受験*** 親が心配して、遠くの学校に行かせたがらなかった。 電車通学なんて、もってのほかだと思っていた。 そんなこともあって、近くの高校(自転車で5分)を受けることになった。 その高校が、吹奏楽が結構上手かったことが救いだった。 他に、その学校に行きたいって思う理由を見つけられなかったから。 受験勉強するんだって、寝不足は発作の要因になるだの、、、って母が横についていた。 夜の勉強は布団の中でしなさいと言われ、横になって勉強した。 「吹奏楽がやりたいので、草加高校に行きます。」 それしか方法がなかった。 定員割れの高校。無事合格。 |
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***高校生*** 薬を飲み始めてから、お陰様で発作は1度も起きていない。 でも、いつ起きるか分からないっていうのは、私も両親も、不安でしかたなかった。 当時の彼氏が面倒見が良くて、病気のことも理解してくれ、親も信頼していたので、 彼と一緒なら他の学校の演奏会を聴きに行ったりすることができた。 やっぱり一人で出歩くことはほとんどできなかった。 彼の引退後は、帰りが遅くなると親が迎えに来た。 やっぱり親のお迎えから解放されないでいた。 高校生になって、やっと母親との入浴、一緒に寝ることからは解放されてはいたけれど。 |
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***短大生*** やっと親の目の届かないところに行くことができた。 私にとって、初めての自由。 親の心配なんてよそに、あちこち遊び回った。 実験のレポートが大変で帰るのが遅いことも多かった。 友達の家に泊まるからと、先生達と朝までカラオケしてたことも多々あった。 なんせ、むちゃくちゃなことをしてみたかった。 そんなことを言っても、やっぱり発作は怖かった。 朝、駅の階段で、「ここで発作が起きたら、私は死んじゃうんだろうな」って思ったり、 「ラッシュの中で発作が起きても、誰も助けてくれないかも知れないな」って思ったり。 |
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***車の免許*** 私の行っていた短大は工学系だったので、車好きの男の子が多かった。 数少ない女の子もそんな子が多かった。 私も車が好きだったから、早く教習所に行きたかった。 だけど、なかなか親が許可を出さない。 何度も喧嘩したけど、なかなか良いって言わない。 「そんなに免許取りたいなら、S平先生に聞いてきなさい」と母親に怒鳴られた。 早速病院の予約を取り、先生に聞くと、 「友達がみんな行ってればやっぱり行きたいよね。じゃ、ほどほどにだっったらいいよ」 と言われた。 S平先生が良いって言うんじゃ仕方ないと、やっと教習所に通うことをOKしてくれた両親。 教習所に行き始め、うきうきだった私に、両親が反対していた理由が分かる時が来た。 学科の教本に書かれた、「免許取得の欠格事由」に『てんかん』の4文字が書かれていたのだった。 目の前が真っ白になった。 泣きたくなった。 でも、免許を取ることを許可してくれたS平先生を信じて、私は車好き娘を貫く事にした。 |
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***卒業研究*** 短大生だって、卒業研究は結構大変。 短大生だから、時間がかかるってこともある。 知恵を振り絞っても終わらなくて、終電で帰ることが多くなった。 両親は心配して、起きて待っていたが、それ自体がストレスでもあった。 別に起きて待ってなくたって、一人で帰ってこれるのに。 その頃、薬の飲み忘れが続いた。 忙しさにかまけて、1ヶ月も薬を飲まなかった。 主治医に事後報告すると、呆れ顔で、「今更飲まなくてもいい。もう止めよう」と言った。 その時は、断薬を喜んだ。 結構怖いことをしていたのに。 この頃、卒研の自分の担当分が、全然理解できなくて、一生懸命悩んでいったのに、 先生の「何が言いたいか全然分からない」の一言で、大打撃を受け、 どんなに体調が悪くても通い続けていた研究室(実験室と呼んでいた)に、行けなくなった。 頭が痛くてしょうがなくて、頭痛薬も効かなくて、辛くてしょうがなかった。 それから、実験室に行くのも怖くて、2週間近く足を踏み入れることができなかった。 頭痛は主治医に相談したら、「自律神経失調症」と診断され、安定剤を処方された。 とりあえず、この薬で頭痛は解消した。 頑張りすぎと、周りの期待とに押しつぶされた、一回目の経験。 |
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***献血*** 献血をしてみたくなった。 一人で献血センターに行ってみた。 受付で、「薬を飲んでいますか?」と聞かれたので、素直に答えると、 中に居るドクターの前に通された。 そのドクターに、てんかんの薬を飲んでいることを告げると、 「薬を飲んでいる人は献血できないので、申し訳ありませんがお引き取りください」 と言った。 私には献血もできない血が流れているのかと思ったら、悲しくなって、涙があふれてきた。 2年後くらいの断薬中に、再度献血に行ってみた。 そこでも素直に「てんかんの薬を飲んでいたことはありますが、もう2年飲んでいません」とドクターに言うと、 彼は何の説明もせずに「献血はやめておいた方がいいです」とだけ言った。 「やめておいた方がいいということは、やってもいいってことでしょう?」と抵抗しても、首を振るだけだった。 てんかんだと献血できないのか、てんかんの薬を飲んでいたから献血できないのか。 どちらにしても、そんな汚れた人間なのか。 悲しくて悲しくて、涙があふれてきた。 それからまた2年後くらいして。 今度は何も言わずに献血してみた。まだ断薬中だった。 初めての献血、初めての献血手帳。 ものすごく健康な人の様だった。 献血センターの人は、「後日、血液検査の結果を郵送しますから」と言った。 待っても待っても送られてこない。結局送られてこなかった。 やっぱり私の血液は受け入れられなかったのか。 献血車を見ると、ヘドが出る。 |
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***大学編入*** 短大から大学に編入することになった。 両親にはムリを言って、編入させてもらった。 弟の浪人が決まった時だった。 私は片道3時間通学を条件に、編入させてもらえることになった。 「あの子は家が遠いから」って言われるのが嫌で、毎朝授業が始まる20分前には教室にいたし、 実験のレポートもちゃんと期限に出せるように頑張った。 編入してすぐの梅雨入りくらいから、動悸・息切れなどの症状が出始めた。 循環器科を受診した。ホルター心電図までやった。異常はなかった。 諦めて我慢した。 乗り換え4回の後に、軽い山登り。 3時間通学は結構辛かったし、この症状を我慢しながらっていうのは、ものすごく辛かった。 でも、どうしたら解決できるのか、わからなかった。 |
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***登校拒否*** 大学の卒業研究。 短大の卒業研究の指導教員だったH先生の所で、短大の卒研の続きがやりたいと、 かなりのムリを言って、外部卒研を認めてもらった。 H先生は大学院に行くように勧めたが、我が家の経済状況ではこれ以上はムリと、 私は就職することにした。 私の就職に納得のいかないH先生は、就職活動をやりながらでは到底ムリな難題を押しつけてきたりもした。 4月に父方の祖父が、7月に母方の祖父が亡くなった。 私の周りはバタバタだった。 でも、やっぱりまだH先生は私の就職を納得していなかった。 それでも、できる限り頑張った。 短大生と合同の中間発表会での一言。 「何が言いたいのか全然分からない」 あんなに頑張ったのに・・・・。 卒研を続けたい気持ちと、先生に会うのが怖い気持ちと。 初めて登校拒否をした。 当時付き合っていた、院生の彼と、その指導教員のZ先生に頼りまくりで、なんとか卒研は進めた。 そんなことしたって、当然、指導教員抜きで研究が進むはずがない。 結局、頑張りだけが空回りして、なんの結果も出せなかった。 |
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***就職*** 私を採用してくれた技術部の課長は、ほんとにすごい人だった。 すごく尊敬していた。 でも、私の入社後、すぐに退職。引き抜きだった。 変わりに来た上司は、無責任なおじさんだった。 すぐに「それじゃ僕が怒られちゃうから。。。」という人だった。 新人の私に、印刷工場の立ち会いに一人で行けと言ってみたり、 会議の企画書を一人で作り、一人で会議を進めろと言ってみたり。 私はどんどん不満が募っていき、彼と接触するのが嫌になり、体調も崩れていった。 頭痛がひどくなり、胃痛、吐き気もひどくなり、会社を早退することも多くなった。 行くところもなく、一人で羽田空港で飛行機を見ていることが多かった。 てんかんの定期受診の時に、主治医に相談したら、また「自律神経失調症」だと。 この時も安定剤を処方され、落ち着いた。 でも、もう一緒にはできないって思って会社を辞めた。 |
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***主治医転院*** 困ったことに主治医が転院した。 変わりに来た先生に診察してもらったら、脳波も見ないで、「もう来なくてもいいんじゃな??」 なんて言われた。不安だった。 てんかん協会の冊子で見つけたクリニックに行ってみた。 頭痛の相談で行ったのに、てんかんと言っただけで、脳波も見ないでいきなり テグレトールとリボトリールを処方された。 ひどい副作用に悩まされた。 めまいがひどかった。音が半音低く聞こえた。 このままどうなってしまうのかと思った。 前の主治医の転院先に電話した。 「いいから、こっちに来なさい」と言ってくれた。 特別に、小児科で継続治療してくれることになった。 S平先生は私にとって神様みたいな人。 |
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***転職@*** 技術職でありたいという、ギリギリのラインで、1度目の転職はプログラマーを選んだ。 電気の仕事は好きだったけれど、経験が足らず、どこにも入れなかったので。 この転職で一つ決めたことは、女だから、病気だからって、仕事から逃げるのはやめようってことだった。 だから、他の男の人達と同じように毎日終電近くまで残業していた。 かなりのストレスで、頭痛やらめまいやらに悩まされたけれど、それを理由に逃げるのはやめようと思っていた。 転職したことをS平先生に告げると、「その生活状況で薬を飲まないのは怖いから、少し薬を飲もう」 と、デパケンR200mgを一日1錠飲むことになった。 しばらくしてからの脳波で、「やっぱり1日2錠、ちゃんと飲もうか。これでも少な目だけど」と。 薬さえのんでいれば、私はなんでもできると、信じ込ませていた。 |
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***コーヒーブレイククラブとの出会い*** 職場でインターネットが使える環境だったので、昼休みなんかに、自分の病気について調べ始めた。 結構ショッキングな事も書かれていたけれど、その中で、てんかん協会のHPにたどり着き コーヒーブレイククラブ(てんかんを持つお子さんを預かる、レスパイトケアのボランティア)を見つけた。 早速、ボランティアの申し込みをした。 初めてコーヒーブレイクに行った日、私はかなりのショックを受けた。 コーヒーブレイクのメンバー達は、てんかんの他にほとんどの子が知的障害も併発していた事実。 ああ、私の病気はそういう病気だったんだ・・・と、ほんとにショックを受けた。 でも、この病気で悩んでいる人は私だけじゃなかったと思えたことも事実。 メンバー達の事をすぐに大好きになったし、自分の事を受け入れられそうって思ったのもこの時。 |
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***一人旅*** いつの間にか私は、一人じゃ何も決められない人間になっていた。 レストランに入っても、店員さんさえ呼べない人間になっていた。 いつも必ず誰かと一緒で、選択に困ればその人が決めてくれる。 そんな状況に慣れてしまっていた。 人前で話すことからも逃げ続け、大学のゼミや卒研発表なんかで少しは解消したかに思えたこともあったが、 やっぱり、知らない人の前で言葉が出てこなかったり、どもったりすることを恐れていた。 そんな自分がすごく嫌だった。 ある日突然、一人旅を決行することにした。 夜行バスで行って、夜行バスで帰ってくるという、泊まりなしの強行スケジュールで。 行き先は徳島県。 江戸時代に作られた河口堰を壊して、稼働堰を作ろうと問題になっている吉野川を見るために。 初めて一人で遠くに出かけることになった。 実は不安だった。 でも、困ったら誰かに聞けばいいんだ。って思ったら、結構なんとかなるもんで、 第十堰(吉野川の河口堰)にえらく感動して帰ってきた。 しかし、帰りの夜行バスを待つ間、バスが時間になっても来ないことを急に不安に思い、 ただ、バスが遅れていただけなのに、不安で不安で、母親の携帯に電話してしまった。 「もうちょっとそこで待ってなさい」当然のコメントだ。 バスが来て、安心して泣きそうになりながら、無事帰宅。 25歳にして初めての一人旅。 何も一人でできなかった私にとって、ものすごく大きな、特別なことだった。 これをきっかけに、一人旅にはまっていく。 「車じゃなければ、どこ行ってもいいよ。」と両親。 徳島旅行以後、青森、奈良・小豆島にも行った。 ユースホステルに一人で泊まると、一人旅の人が多く、なぜかこの人達となら話すことができて。 その場で友達になったこともあった。 なーーんだ。やればできるじゃん。 |
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***カヌー始めた*** 水への憧れの強かった私。 高校3年生の時に、野田知佑さんの本と出会う。 ゆったりのんびりの、ツーリングカヌー。 夢みたいな世界だった。 でも、私にはムリだろうな。。。。と、ずっと思っていた。 野田さんの本の中だけに、夢の世界を描き続けていた。 26歳になってから、短大の先生、大学の先輩達と、カヌーをやってみようという話しが持ち上がった。 彼らは私の病気のことを知っていたし、一緒に行くことにした。 水に浮かぶフネの上は、ほんとに自由だった。 沈の練習もした。なーんだ。エスキモーロールなんてできなくても、沈したら、フネから出てくればいいんじゃん。 私でもできるような気になっていた。 やっぱり不安はあったけれど。 事後報告で、S平先生にカヌーの事を話した。 「カヌー?いいんじゃない。おもしろそうだし。でも、ほどほどにね。」 物わかりの良い主治医を持ってシアワセな私でした。 でも、やっぱり一人じゃ行けない。いくら私でも、水遊びだけは一人じゃ行けない。 一緒に水遊びをしてくれる仲間はキープしておかなくてはならない。 仲間と予定が合わないと、なかなか行けない。 悩みのタネ。 |
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***転職A*** プログラマー生活も3年経とうという頃に出向していた現場は、もうほんとに地獄のような所で、 毎日終電までの残業に加えて、週末の徹夜やら夜勤やらがあった。 リーダーなんかは何日も泊まりがけで仕事していたので、断るわけにはいかず、私も一緒に徹夜作業をしたけれど、 やっぱり徹夜となると、発作が怖い。 S平先生に相談した。 当然ドクターストップ。 でも、そんなドクターストップを受け入れてくれるような余裕は、現場にはなかった。 それまで12年、発作を起こさずに築き上げてきた物を、こんな仕事ごときで崩したくないと思い、 あっさり退職を決意した。 その後の身の振りとして、ホームヘルパーを取得することにした。 大学受験の時に、実は福祉の勉強をすることと悩んだこともあり、 また、コーヒーブレイククラブの活動を通して、福祉の仕事も良いかな?と思っていたので。 大宮の職業訓練校を受験して、みごと合格。 ヘルパー1級養成のクラスに入ることになった。 |
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***介護職*** 高齢者のデイサービスで仕事をしている私。介護職。 私にとっては天職だと思っている。 利用者と一緒に笑って、一緒に悩んで、この人達の為なら、なんでもできる!って思える。 でも、それが負担になりすぎていたみたい。 頑張らなくちゃ頑張らなくちゃ。 他の人達ができていることなのに、自分ができないと、ものすごく気になってしまう。 大勢で移動をするとき、自分は何をすればいいのか分からなくなってしまう。 それについての、ちょっとした注意が気になってしまう。 利用者には、元気な私を求められている。 頑張ることが辛くなってきた。 そんなころ、季節はずれの台風が来たり、あっというまに梅雨入りしたり。 動悸・息切れ・頭痛などの症状がひどくなってきた。 思い切って、心療内科を受診。 自律神経失調症と診断された。 |
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***自律神経失調症・ADHD・鬱*** いろいろ薬を試すことに。 ついでに、前から気になっていたADHDについても相談し始めた。 日本にはまだ、大人のADHDの治療をできる医者が少ない。 ネットで探し当てた病院はちょっと怪しめの病院。 でも、他ではその判断すらできないというのだから仕方がない。 その病院は、あっさり強い薬をくれた。 どんどん薬依存になっていった。 自律神経の調整をするのに、抗鬱剤を使ったりするんだけれど、 あっと言う間に、鬱の症状が出始めた。 薬が切れて、どうしていいか分からなくなって、友達に泣きながら電話したこともあった。 そんな私だけれど、薬を飲んででも仕事がしたい。 利用者と笑いたい。 人の体は、すぐに薬に慣れていく。どんどん強い薬が欲しくなる。 ADHDの相談をした医師は、毎回ころころ処方を変え、さらにどんどん薬を強くしていくし、 診察の度に出てくる医師(!?)が違い、言うことも違うので、このクリニックには行くのを止めた。 なので、ADHDの治療薬としてもらった薬もそのまま飲むのを止めた。 ADHDの治療薬としてもらった薬(リタリン)を飲んでから、自律神経失調症の症状(動悸・息切れ) がひどくなってきた。 病院は元のクリニックに戻った。 でも、一度強い薬を飲んでしまったため、処方通りに飲んでも全然効かない。 不安で仕方なく、手当たり次第薬を飲むようになってしまった。 息苦しささえ治まればどうでもいい!と思うようになった。 処方量どころか、その薬の規定量も越えて飲むようになってしまった。 どんどん症状は悪化してきた。 ある日、風邪をひいたこともあるけれど、どうにも体調が悪く、仕事を休んだ。 薬を手当たり次第飲んでしまうことを医師に相談した。 話すだけ話したらなんだか楽になった。 一度はADHDの相談をしていたクリニックでもらった薬のストックを預かるという話しになったが、 抗鬱剤を処方され、その薬を飲み始めてから、薬を飲みあさるのは治まった。 それから、飲んでも良いと言われた薬以外の薬は、手を付けないように別の袋に分けた。 今は、あの先生を信じて、言うことを聞くしかできない。 なんとか仕事を休まずに、治療を進めて行きたい。 早く元気になりたい。 「てんかん」でなければ、持ってる薬、もっと乱用してたかもしれない。 でも、脳の神経に疾患のある身としては、そこでとどまってる。 鬱とか自律神経とか、そんなことより、やっぱりてんかんの発作の方が怖いから。 今、貰ってる薬はすべて、「てんかんの人には要注意」とかかれているから。 なんせ、早く楽になりたい。 ADHDについて、ヘルパーを取得したときにお世話になったS田先生に相談した。 受診しようかどうか。検査料が高いことなど。 すると、 「ADHDは病気じゃなくて障害だから、治ることはない。対処療法しかない。 そしたら、自分の苦手なことが分かってるなら、それの対処を自分で考えた方が得だよ。 治らないもの、対処療法しかできないものにお金かけることないよ。 ADHDで日常生活が送れないほどひどいんじゃなければ、自分なりの工夫でなんとかなるから。」 先生のその一言で検査・診察・治療をしようという考えを捨てることにした。 そのかわり、苦手なこと(慌てちゃうとか、忘れちゃうとか)の対処を、もっとちゃんと考えようかな って思うようになった。 『役立たず』ってレッテルは貼られてるかもしれないけど、アタシなりに頑張ろうって思った。 「全般性不安障害」という診断名で、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律第32条を申請しています。 これを使って治療しているのは、全般性不安障害、自律神経失調症(心身症)、鬱、パニック障害、この4つ。 最初は自律神経失調症だけだったけど、症状の悪化に伴い、気分の落ち込みから鬱を併発。 その後、通院を続けているうちに、パニック障害も発症していると言われた。 鬱は、自分の失敗に対する注意などを気にしすぎて落ち込みすぎたり、 自分は不要だから、消えてしまいたいというか、存在を消してしまいたいと思ってしまうようになってしまい、 一時は、「消えたい病」で毎晩泣き続け、治療を開始した。 パニック障害は、仕事の時の不安、失敗の先読みしすぎが原因らしい。 先読みした失敗、それに対する不安から心身症と同じ症状(動悸・息切れ)が起こってしまう。 動悸・息切れは、心身症だけが原因だと思っていたから、パニック障害と診断されて、ちょっとびっくりした。 仕事が好きで、休んだり辞めたりってことは、全然考えてない。 でも、やっぱり体調が悪くてどうにもならない日もあって、休んでしまうこともある。 (発病後2ヶ月半で3日) それに対する罪悪感がまた大きい。 誰だって、体調が悪ければ仕事休んだりするのに。 劣等感(周りはベテランばっかりなんだから、同じようにできなくて当然なのに、ものすごく劣等感を感じる)、 罪悪感(体調不良で迷惑みんなに迷惑かけてることにかなり罪悪感を感じている)、 周りの注意を気にしすぎること、から自分を解放してあげられるまで、この症状は良くならないと先生に言われた。 そのためには仕事頑張るしかないんだけど・・・。頑張ると余計具合悪くなるし・・・。 周りは頑張るなって言うし・・・。 アタシはどうすればいいんだろう。 |
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***休職*** ギブアップしました。 通院を始めて3ヶ月、ドクターストップがかかってから1ヶ月。 がんばれてたかな?アタシ。 不安と仕事を休んでしまっていることへの罪悪感、劣等感、脱落者感でいっぱい。 休んでたら、ほんとに元気になって復帰できるのかな? 不安でいっぱい。 ただね。 理解してくれる家族、友達に恵まれてるの。 感謝しなくちゃいけないね。 みんな、ありがとう。 頑張って早く元気になるよ。 |
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***再就職・そしてまたリタイヤ*** 休職して4ヶ月が過ぎた頃、ずいぶん体調も良くなり、仕事に復帰したい気持ちが大きくなってきた。 そんなころ、ヘルパー講習時代の友達Aちゃんから、条件の良い仕事を紹介してもらえた。 アタシはその仕事に飛びついた。 先生は絶対ダメだって言ってたのに。 毎朝のパニック発作。 仕事は楽しいのに、通勤だけで疲れ果て、病状は悪化していった。 仕事を始めて1ヶ月。あっという間のリタイヤだった。 |
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***感情の制御ができない*** この頃から、感情のコントロールができなくなってきた。 週2回通っていたデイケアも、毎日来るようにと言われる。 笑ってたかと思うと、急に泣き出したり、安定剤(セルシン)の筋注をねだったり。 周りを巻き込んでぼろぼろになっていった。 |
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***パニック発作連発*** 電車に乗ってもバスに乗っても、とうとう自分で運転する車でも、パニック発作が連発するようになった。 電車やバスの場合は、すぐに薬を飲めるけれど、自分で車を運転しているときは、頭が真っ白になる。 どうにかならないの? アタシが楽器を吹いている場所に行くには、どこに行くのでも車で行かなくちゃ行けない。 デイケアに通うのにも電車に乗らなくちゃ行けない。 なんとかならないものなのか? 一度崩れてしまうと、なかなか復旧できない、この体。 |
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***プチOD・リストカット発症*** 仕事してない自分、頑張れない自分、病気に負けてる自分、太ってしまった自分が許せなくて、 短大のクラス会前に荒れに荒れてしまい、とうとうプチOD。 注射をねだってみたり(注射はしないという約束だった) 先生が”おまもり代わり”といってくれたデパス10錠を一気に飲んでみたり、 デイケアのスタッフにも友達にも迷惑かけまくった。 その後も、オケの練習で、ソロが全然吹けなくて指揮者の先生に指摘されたことを気にしてプチOD。 とうとうリストカット(軽いのだけど)まで。 好きな楽器を思い通り吹けない事、こんなことでしか解消できなかった。 リストカット。痛くなかった。まあ、傷が浅いからだとは思うけれど。 暖かい血は流れてこなかった。とても冷たかった。 このままプチODやリスカは続いていくのだろうか。 |
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***精神障害者手帳入手*** とうとう精神障害者手帳入手。 等級は3級。 そんなにメリットはないけれど、自分の病気を自覚させるために。 医者の言うこと無視したり、自分の体調管理もしないで無茶したり、 そんな自分は大嫌いだったので、そろそろ病気を認識させねば・・という事で、 手帳を取得してみました。 水色のカバーに「障害者手帳」と金色の文字。 そうなのさ。アタシは障害者なんですよ。 今まで通りにはいかないよって、ちゃんと認識して動かないと、体がかわいそう。 周りにも迷惑。 そんなわけで、手帳入手なのでありました。 |
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なんだか書いてある事がバラバラで読みにくいと思いますが、こんな人生を送っています。 なんとか早く元気になりたいです。 普通に仕事できるようになりたいです。 こんなこと親には言えないけど・・・。 次に生まれてくるときには、健康な体で生まれてきたいです。 でも、せっかく生まれてきたアタシ。 こんなアタシでも、大事にしてくれる両親・友達・先生。 アタシにできること、頑張りたいです。 |