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アルコール依存症とは
 アルコール依存症は治療すれば治る病です。昔は、アル中になる人はいつまでも酒が止められない意志の弱い人だと誤解されていましたが、実はアルコールという薬物のせいで、酒が止められなくなっているのです。つまり、「止められない」こと、それ自体が病気なのだと考えられています。

 酒を飲み過ぎれば、必ずアルコール依存症になります。個人によって、その量はまちまちですが、多量に長年飲めばアルコール依存症になる可能性は非常に高いのです。
 昔はお酒は高嶺の花で、庶民は簡単に手を出すことができず、お酒など飲めなかったので、アルコール依存症は少なかったのですが、現在では、安価なお酒が簡単に入手できるので、患者が急増しています。

 アルコール依存症になると、体内からアルコールが抜けるときに禁断症状が起きます。いわゆる離脱症状で、原因は自律神経失調症です。症状は、発汗、手の震え、ふらつき、イライラ、不眠などが現れ、それがひどくなると、幻覚を見、幻聴を聞いて、悪夢にうなされるようになります。特に虫や蛇などの小動物が多数出てきて、体の周りを這い回る幻覚を見ることが多いようです。
 離脱症状は禁酒してすぐに現れる場合と、2・3日してからはじめて現れる場合があります。ですから、1日くらいお酒を止めて、禁断症状が出ないからといって、アルコール依存症ではないとは判断することはできません。

 アルコール依存症が進行すると、「連続飲酒」といって、朝から晩まで何日間もお酒を飲み続けるようになります。こうなると放置しておくわけにはいきません。

 アルコール依存症になると、他の病気を併発して死に至る場合があります。例えば、肝硬変・すい臓病・糖尿病・胃潰瘍などなど、数え挙げればきりがありません。世間一般の寿命が長くなっているのと比較して、アルコール依存症患者の平均寿命は60歳に満たないという報告もあります。
 病死だけでなく、「お酒を止めなくては」というストレスからうつ病を併発し、自殺願望にとらわれることもあります。

 また、アルコール依存症になると、家族や周囲に非常に迷惑をかけることになります。
 お酒を飲んで喧嘩をしたり、家族へ暴行を振るったり、飲酒運転による事故を起こしたり、仕事をサボってクビになったりと、平常な家庭生活を営むことができなくなります。果ては金銭的にも破綻をきたしかねません。
 そのことで苦しんでいる家族は多いと思います。

 作家としても有名な精神科医・なだいなだ先生は、アルコール依存症を、
  「アルコールを止めろと、まわりからいわれるようになった人たち」または
  「お酒を止めないと、それが元で、まわりとトラブルを起こしてしまう人たち」
 と定義されておられます。
 ですから、お酒で周囲に迷惑をかけるようになったら、ご家族を含めて周囲の方々は、その方をアルコール依存症であると判断して、治療を始めることをお勧めします。

 アルコール依存症の治療法は断酒だけです。
 入院しても禁断症状が終われば、あとは治療といっても、抗酒剤(お酒を飲むと気分が悪くなる薬)の投与などをして、いかに飲まないかという指導をするだけです。

断酒会とは このページの先頭へ 前画面へ戻る

 ところが、アルコール依存症の患者さんは、何だかんだと言い訳をして「自分はアルコール依存症ではない」と主張するのが特徴でもあります。いくら家族や周囲の人々が治療を勧めても、患者さんは、入院どころか、医者へ行くことも拒むでしょう。
 そういう場合、ご家族の方だけでも、保健所の主催する酒害相談や、近くで活動している断酒会やAAへ足を運ぶべきです。

 アルコール依存症の治療法は断酒だけです。しかし、お酒を止めることは簡単ではありません。お酒を一人で止めることはほとんど不可能です。そこで、患者同士、励まし合ってお酒を止め続けようという自助グループが、断酒会やAAと呼ばれるものです。

 断酒会では、患者さん達が集まって、体験発表といって、過去の辛い体験を赤裸々に話します。また、現在苦しんでいることを多くの人々に聞いて貰います。
 多くの体験発表を聞くことで、悩んでいるのは、また苦しんでいるのは自分だけはないと解れば、ずいぶんと気が楽になるものです。

 そして、断酒会では、今日一日お酒を止めようと誓い合います。
 一日断酒ができたら、その翌日も一日断酒を誓います。そうして、断酒を継続していくのです。

 一人で断酒はできなくとも、仲間がいれば続けていけるものです。
 アルコール依存症と診断されたら、是非、一度、お近くの断酒会(またはAA)に足を運んでみて下さい。

 もし、本人が嫌がる場合や、本人が絶対に「俺はアルコール依存症ではない」と言い張るような場合は、奥さんだけでも断酒会のドアを叩くべきです。断酒会の人々は、そんな例をたくさん見てきているので、適切なアドバイスをしてくれるでしょう。

 アルコール依存症というのは、お酒を止めれば治る病気です。
 どうか、一人で悩んでいないで、病院や保健所、断酒会やAAに相談してみてください。

 また、アルコール依存症に関して、基本的なことを知りたい方は、本ホームページで紹介している「目を赤くした猿達」を一読して下さい。小説仕立てになっていますので、気軽に読破できると思います。
 また病気に関して詳しいことを知りたい方は、「魅惑の蝶が運ぶもの」を、断酒会やアルコール依存症に苦しんだ家族に関しては「惨劇の向こうに」をお勧めします。

アルコール依存症チェック このページの先頭へ 前画面へ戻る
3.アルコール依存症チェック
 (1) 次の文章のうち該当するものを数えて下さい。
  @ 酒を飲んで仕事をサボることがある。
  A 飲んで家庭に波風が立つことがある。
  B 飲んで人から不評を買う。
  C 飲んだ後で深く後悔する。
  D 毎日、同じ時間に飲みたくなる。
  E 飲まないと眠れない。
  F 翌朝また飲みたくなる。
  G 外で一人でも飲む。
  H 飲むと家庭の事に無関心になる。
  I 酒のため経済的危機に陥ったことがある。
  J おじけを除くために飲む。
  K 自信をつけるために飲む。
  L 不安からのがれるために飲む。
  M 飲むと友人を見下したくなる。
  N 飲むと仕事の効率がひどく下がる。
  O 飲むと向上心が無くなってしまう。
  P 飲んで完全に記憶を失ってしまったことがある。
  Q 飲んで仕事上のミスをしてしまったことがある。
  R 飲んで医者にかかったことがある。
  S 酒のために病院に入院したことがある。
   この結果  6個以上○の方は アルコール依存症
         4個以上○の方は アルコール依存症予備軍です。
   (ジョンズ・ポプキンズ大学の『アル症自己診断法』)

 (2) 次の文章を読んで、「はい」か「いいえ」でお答え、その点数を計算してください。
  @ 酒が原因で人間関係にひびが入った。        はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  A 今日だけは飲むまいと思ってものんでしまう。    はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  B 周囲の人から大酒のむと非難された。        はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  C 適量で止めようと思っても、つい酔い潰れるまで飲む。はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  D 翌朝、ところどころ前夜の記憶が無い。       はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  E 休日はほとんと朝から飲む。            はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  F 二日酔いで欠勤したり、大事な約束を守らない。   はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  G 糖尿病、肝臓病、心臓病と診断された。       はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  H 酒がきれると、発汗、手の震え、イライラや不眠などで苦しむ。
                             はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  I 仕事上の必要で飲む。               はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  J 酒を飲まないと寝付けないことが多い。       はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  K ほとんと毎日清酒3合(ビール大瓶3本)以上の晩酌をする。
                             はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  L 酒の上の失敗で警察の世話になった。        はい=1.0点 いいえ=-1.0点
  M 酔うと怒りっぽくなる               はい=1.0点 いいえ=-1.0点
   この結果  2点以上    重篤問題飲酒群
         2点〜0点   問題飲酒群
         0点〜−5点  問題飲酒予備軍
         −5点以下   正常飲酒群
                         (久里浜病院の診断法)

体験談 このページの先頭へ 前画面へ戻る
   体験談「酒害と分かるまで」   藤田 唯

〇亡くなった方より、生きた人を優先して
 その電話は、友人の奥さんが乳がんで亡くなり、これからお通夜に出掛けようとしているときに掛かってきた。
「お宅のおじさん、なんか、へん。とにかく、今すぐ来てくれない?」
 実家のすぐ側に住む親族からの電話であった。両親の住む実家は横浜にあり、私は地方に嫁いでいる。
 そんなことを言われても、すぐに行ける距離ではないし、私はこれからお通夜に行かなければならない。それにしても、『親父がへん』とは、どういう意味だろう。私は、電話の言葉の意味を理解しかねていた。
 とにかく、こちらの事情を親族に告げると、
「それは大変ね。でも、今は、悪いけど、亡くなった人より、生きているおじさんが問題なの。こちらを優先して、すぐ来てちょうだい」
 親族の言葉は切羽詰まったものだった。この言葉に、私も事の重大性にようやく気付いた。
 その直後のことは、目まぐるしくて、あまり覚えていない。
 頭の中で「お宅のおじさん、なんか、へん」という言葉が渦巻いていた。「へん」とはどういうことだろうか。つい数日前に電話をしたとき、父には特別変わった様子は見られなかったように思う。なのに、あれほど親族を慌てさせるほど、「へん」になったとは、一体、父に何が起き
たというのだろうか。
 ともかく、お通夜には主人一人で出席して貰い、私は、大急ぎで喪服を着替えて、列車に飛び乗った。
 父が69歳の早春の出来事だった。

〇気が狂うって、こういうこと?
 数時間後、私は、実家に戻っていた。
 父は確かに「へん」であった。
 床に座り込んで、一人ぶつぶつつぶやいているかと思うと、突然、立ち上がって室内を歩き回る。その様子は、自分の殻に閉じこもり、人を決して寄せ付けないという感じなのである。
 話し掛けても反応がなく、どうやら、私の言葉が耳に入っていない様子。いや、実の娘が、心配して帰ってきたことさえ、全く気付いていないようであった。
 父の目は虚ろで、どこを見ているのか、焦点が定まらない。
 時々、煙草に火を点けるのだが、ただ習慣で手が動いて、いつもの癖で吸っているだけなのだろう。煙草を持つ手を不安定に動かすので、その火が床に落ちてしまったり、またはカーテンを燃やしてしまうのではないかと心配で、父が煙草を消すまで、全く目を離せない。
 母はおろおろするばかり。
『数日前までは普通だったのに…。気が狂うって、こういうことなのだろうか』
 私は、心の中が凍りつく思いで、突然廃人になってしまったような父を見て、立ち尽くしていた。
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〇真夜中の救急車
『どうすれば良いだろう』
 と、この緊急事態への対応に頭が回ったのは、しばらく時が経ってからのことだと思う。
 とにかく、父を何とかしなくてはならなかった。それは、一人娘である私の勤めである。
 母は、こんな時、頼りにはならない。おろおろするだけで、何の戦力にもならない。昔から、そういう人なのだ。
 近所の親族も、娘が到着したことで、「後は任せた」と引き上げて行った。夜半を回ったこんな時間まで、付き合ってくれていたことに感謝すべきである。
 しばらくして、主人から、
「通夜は無事終わったけど、そっちは、どう?」
 と、電話が掛かってきた。そして、
「一度、119番に電話してみたら」
 と、アドバイスしてくれた。
 緊急の場合、119番で相談に乗ってくれるのだそうだ。確かに、病院も閉まっている夜中、他に方法はない。私は躊躇なくダイヤルを回した。
 やがて、夜中の静寂を引き裂くサイレンの音を轟かせながら、救急隊が駆けつけてくれた。当然のことながら、ご近所の人々は何事が起きたのかと、眠い目を擦りながら、その様子を見守っている。
 その音で、父は夢から目覚めたようだった。
「何だね、何かあったのか」
 と、父は、私の目を見て、普通の父に戻って尋ねた。
 そして、「お名前は? 気分はどうですか?」という救急隊の質問にも、父はまるで何事も無かったかのように、常人に戻って淡々と答えたのである。いや、何のために、救急隊がやってきたのかが分からず、当惑して、逆に隊員に質問する始末。幸か不幸か、この時だけは、あの狂った父はおらず、いつもの父に戻っていた。
「この分なら、大丈夫そうですね。また、何かあったら、連絡して下さい」  と、せっかく来てくれた救急隊は引き上げて行ってしまった。
 大騒ぎして救急車を呼んだ私は、穴があったら入りたい思いだった。しかし、父が戻ってくれたことで、少しだけ安堵していた。

〇はじめての精神科
 翌朝、私は電話帳で調べて、父を近くの精神科のクリニックへ連れて行くことにした。昨晩は一度は元に戻ってくれた父だが、朝、起きてみると、昨日と同じ「へん」な態度をぶり返していた。
 ところが、診療室に入ると、父は昨夜と同じように普通の人に戻ってしまったのである。
 それでも、先生は、一応は病人扱いをしてくれて、
「今日は何日か分かりますか」
 とか、
「机の上にえんぴつは何本ありますか」
 などと質問して、精神面や知能面などを調べて下さった。
 そして、その結果、
「そんなに心配はいらないでしょう。安定剤を出しておきます。しばらく、様子を見て下さい」
 との診断。父の病名を決定することなく、我々はクリニックを追い出された。
 その帰り道、
「何であんなくだらないことを聞くのか。人を馬鹿にするにも程がある。わしは、二度と精神科になど掛からんぞ」
 と、父は、精神科医の態度が気に入らなかったようで、憤懣やるかたない様子だった。
 その目が、三度(みたび)、虚ろさを増していった。
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〇アルツハイマーですね
 午後になって、主人が車で駆けつけてくれた。
 父の容態は、次第に悪化していくようだった。部屋の隅にかがみ込んで「虫が這っている」と怯えてみたり、台所から包丁を持ち出して、自分の手首を切ろうとしたりもした。私は、一刻たりとも、父から目を離せない状態だった。
 それでいて、静かな落ち着いた時間もあるにはあった。そんな時、父は、煙草をくゆらせている。そして、しばらくすると、また暴れ出すのである。
「とにかく、連れて帰るしかないな」
 主人の決断で、私たちは、両親を我々が住む町に連れて帰ることにした。
 そして、大きな病院で精密検査をしてもらうことにしたのである。
 途中、父は高速道路を走る車から飛び降りようとしたりして、長距離の移動は大混乱ではあったが、何とか無事に帰りついた。
 父は大病院でレントゲンやCT、もちろん、問診など、いろいろな検査を受けた。
「アルツハイマーの可能性がありますね。ほら見て下さい。こんなに脳が萎縮しています。これはもう治りませんね。これから、病気とどう付き合っていくかを考えましょう」
 という医者の診断。それは、死刑の宣告よりも残酷な言葉だった。
 父は、狂ったまま、この先、ずっと生きていかなければならないという。父自身も不幸だが、看護に当たらなければならない我々は、一体、どうすれば良いのだろう。

〇試していいですか
 時々暴れ出す父を、総合病院では預かれないというので、しばらく精神科の専門病院に入院させて貰うことにした。
 父の部屋は開放病棟であるが、隣を見ると窓に格子のある病室が並んでいる病院である。辺りから人の声とは思えぬ叫び声が聞こえてきたりもした。
 父は、入院後、薬の影響なのか、すっかりおとなしくなった。ただ、本をさかさまに読んだり、歯磨きの最中、ゆすいだ水を飲み込んでしまったりと、異常な行動は相変わらずである。
 そんなある日、先生が、
「もしかすると、ウエルニッケ脳症という可能性もあります。ビタミンB1を大量投与してみましょうか」
 実は、この先生、学会でウエルニッケ脳症についての発表を控えていて、偶然父がその対象であったので、研究の一助にしようというのである。
「命に別状がなければ、何でも試してみて下さい」
 と、私は即座に答えていた。実験台であろうと、何であろうと、今よりも、少しでも病状が改善する可能性があるのなら、何でも試して欲しいというのが正直なところである。  昔の父に戻ってくれる可能性があるのならと、藁にもすがる思いだった。
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〇脳が脚気に
 それから数日後、父は急速に快復していった。
「おはよう」
 と挨拶すると、
「おはよう」
 と返事が返ってくる。そんな当たり前のことに、私はどんなに感激したことだろう。
 医者の説明によると、父の病名はウエルニッケ脳症といって、脳の中までビタミンB1が欠乏して、いわば、頭の中が脚気になった状態だったのだという。そのため、不足していたビタミンB1を大量投与したら、急速に快復したのである。
 原因は、たぶん、食事もせずにお酒ばかり飲んでいたため、栄養が不足したのだろうということだった。
 後で知ったことだが、もし、この時、ビタミンB1の大量投与を行わなかったら、父の脳は萎縮し続け、その結果、父は命を失っていたかもしれなかったのである。まさに、父は強運に恵まれ、九死に一生を得たのだった。
 それにしても、ここに来て、初めて、父の病気の原因が酒害だと解明された。
 確かに、父と酒とを切り離して考えることができないほど、父は昔から酒好きだった。若い頃など、どんなに貧乏をしても酒だけは買っていたという。ともかく、父は常に酒を切らしたことがなかった。時にはご飯も食べずにお酒ばかり飲んでいることもあり、そのために体調を崩して痩せこけていた。
 だが、私を含めて、誰一人として、そのことと、今回の異常を結びつけて考えてみたものはいなかった。
 確かに父がアルコール依存症ではないかと心配したことはあったが、当時の私は、アルコール依存症がどんな病気で、どんな弊害をもたらすのかということを全く知らなかったのである。
 それに、ごくたまにではあるが、父は体調を崩すと1ヶ月近くも禁酒することもあり、そのことを取り上げて、いわゆる「アル中」の範疇には入らないのではないかと高をくくっていた。
 そして、酒の害がこんな風に現れるなど、専門知識のない我々には想像もつかないことだった。
 それにしても、ようやく父の病気の原因が「酒」と判明したのである。ここに辿りつくまで、随分と回り道をしてしまったように思う。何と長い道程だっただろう。

〇酒害の治療と断酒会加入
 病気の原因が「酒」だと分かり、また、頭の中の思考回路を取り戻した父は、横浜に帰って、酒害の専門病院に診て頂くことになった。同時に、この病気を治すには「酒を断つ」しか道はないと知り、断酒会のドアを叩いた。
 父にとって、このことは第2の人生の始まりだったに違いない。それまでは、やせ細り、杖をついて歩くのもやっとだった老人が、見事に立ち直ったのである。
 さすがに断酒会に入って2〜3年は、「酒を止める」辛さと戦っていたようで、いらいらしたり、「酒」を憎んだりしていたようだった。
 だが、「痛み」を分かち合うことのできる「仲間」を得たことで、父はその辛さを克服できたのである。
 時が経つに連れ、再生した父は、背広にネクタイで身を固め、颯爽と歩くようになり、随分と若返った。
 それに、あんなに痩せ細っていた父が、娘の私から
「肥満になるから食べ過ぎないように」
 と、食べ過ぎを注意されるほどになり、完全に健康を取り戻した。
 そして、断酒会に通い、断酒道を歩むことで、自らの依存症を克服したのである。
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〇小説、書いてみないか
 健康を取り戻し「断酒道」を歩み始めた父にとって、断酒会に通うことは、完全に新しい生き甲斐となったようである。
 父は、自分が健康を取り戻すことができた感謝の気持ちを込めて、新たに断酒会に入会した後輩の面倒を見るようになった。それだけでなく、市の酒害相談指導員のボランティア活動にも積極的に参加して、酒害と戦う人々のために手を差し伸べようとしていた。
 そうすることが、失っていたかもしれない命を取り戻し、その上に充実した生活を与えてくれた断酒会の方々への、せめてもの恩返しであったに違いない。
「アルコールは適度に飲んでいるうちはいいが、一つ間違うと本当に怖いからな」
 というのが、父の口癖であった。
 そして、私たちにも、断酒会の人々が体験してきた酒害の悲惨さを繰り返し話してくれた。その内容は、酔って暴れた武勇伝に留まらず、殺人・放火・自殺未遂などなど、世の常の通念からは大きく外れたものだった。
 そんな父が、ある時、
「アルコール依存症を題材とした小説を書いてみないか」
 と言い出したのである。
 私は趣味で歴史小説を書いている。いずれは、自分の書いたものをいろいろな人に読んで貰いたいという夢を持っていた。 「世の中には酒で苦労している人が多い。だけど、皆、アルコール依存症というのがどんな病気なのか知らないで、苦しんでいるんだ。そんな人も断酒会に繋がれば、救われるのだがな…。読みやすい小説仕立てで、酒害のことを書けば、一般の人にもアルコール依存症のことや断酒会のことを知らせることができるだろう。小説の材料は山ほどある。やってみないか」
 と、父は熱っぽく語った。
 特に、父の場合、病気と酒が結びつくまでに時間が掛かり、その間、苦労を強いられたという経験があるので、酒の怖さを一般に人にも知って貰いたいという気持ちが強いのだろう。
 その気持ちは私にも分かった。
 父の情熱にほだされて、私は猛勉強を開始した。父の持つアルコール関係の本を読み漁り、断酒会の人々の体験談を拾い、実際に断酒会の研修会にも参加して、「取材」もした。
 そして、完成したのが「目を赤くした猿達」という処女作である。
 父は大いに喜び、知り合いの専門医の先生方に医学的な間違いがないかを尋ねたり、多くの断酒会の知り合いに宣伝したりした。
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〇夢半ばで…
 お陰様で、出版の話は進み、また、多くの地域の断酒会のご好意で、研修会の席などでのその販売を許して頂くことできるようになった。すべて、父がこの10年、断酒会活動に積極的に参加した努力の結果である。
 親ばかの父の宣伝よろしく、本は着実に売れ、読者も増えていった。そんな方々の要望もあって、2作目、3作目の出版にもこぎつけた。
 父は、いろいろな研修会に私を連れ回し、
「娘です。これが本を書いてましてね。まあ、読んでやってくれませんか」
 と、多くの方々に私を引き合わせた。
 あの時の嬉しそうな父の顔が忘れられない。
 そんな最中、突然、父の病気が発覚したのである。病名は肺がん。発見した時にはもはや手遅れで、「あと1年」の宣告を受けた。
 無論、父のショックは計り知れないものがあっただろうが、父は、余命を断酒会の中で過ごそうと決意したようである。残された1年間、父は以前にも増して精力的に断酒会の研修会などに参加し、無論、私を引き連れて本の宣伝に努めた。体が動かなくなる瞬間まで、研修会巡りを続けたのである。
 そして、遺言通り、葬式は酒飲みの親戚を一切排除して、断酒会の方々のみに送って頂いた。
「酒を飲んで逝ったんじゃなく、最後まで飲まないで逝ったんだから、本望だろう」
 とは、断酒会の先輩の贈る言葉である。

〇ミイラ取りがミイラに
 それまで、私にとって、アルコール依存症の小説を書き、断酒会の研修会に参加して、それを買って頂くという行為は、半分は自分のためであっても、半分は親孝行であった。
 ところが、多くの研修会に参加し、多くの方々のお話を聞くうちに、何か「違う」と感じ始めたのである。
 自助グループの中で、自らを反省し、断酒を続ける一方で、まだまだ酒に走りがちな新しい仲間に、当然のように手を差し伸べている方々と接しているうちに、心を打たれたのかもしれない。苦しみを乗り越えてきた彼らは、そんな体験から、同じ苦労をしている仲間を助けようとしているのである。
 微力ながら、私にも何かできることがあれば…。柄にもなくそんな気持ちになったのは、断酒会の方々の温かさに触れることができたからだろう。
 そして、考えた末に得た結論は、今の私にできることは小説を書き続けることしかないということだった。
 それが父の遺志を貫くことでもある。
 アルコール依存症をテーマにした小説を、これからも書き続けようと、私は決意した。
 ただ、はっきり言って、自費出版はボランティア以外の何ものでもない。確かに読者の皆様には買って頂いてはいるが、それは実費に過ぎない。全国各地の研修会に出かければ、交通費も会費も掛かり、その分は赤字になってしまう。本を売り歩けば歩くほど、また、新たに本を出せば出すほど、赤字は確実に増していく。
 だが、断酒会の方々の顔を見ると、そんな愚痴は飛んでしまうのである。
 どこかへ出掛ければ新しい出会いが待っている。何度も足を運んで研修会に顔を出せば、馴染みになった方々との再会ができる。その中で、学ぶこと、得ることの貴重さは他に替えるものがないのだから。
「アルコール依存症という病気を一般の方々にも知って貰いたい。少しでも酒害に悩む人々の力になれば」と、世のため、人のために小説を書き続けるなどと偉そうなことを言ってはいるが、その実、結局は私自身が得るものの方が大きいようである。
 私は、私自身のために、これからも小説を書き続けようと思っている。
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