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文−シライユタカ
草野マサムネ−マ
三輪テツヤ−テ
田村明浩−田
崎山龍男−崎
Honey Sweet!!
RRN総力特集・スピッツ
完全攻略マニュアル。
彼らの魅力の全てに迫る!!
独自のスタンスを崩すことなく、時代の巡りを待ち続けたスピッツ。
デビューから4年、遂に彼らの成果が大きく実を結んだ。
今回は、初の表紙・巻頭特集を記念し、草野マサムネ・超ロング・インタビュー、そのほかメンバー全員によるニューアルバム『ハチミツ』の徹底解剖、全アルバム・レビューもあわせて一挙掲載!!
スピッツ大特集のパート1は草野マサムネ・ソロインタビュー。
バンド結成から現在までの8年間、彼らがたどってきた道のりは決して順風満帆だったわけではない。試行錯誤を繰り返しながら、時代に流されることなく成長をとげた彼らが、ついに手にした揺るぎない自信。
一歩一歩着実に足跡を刻んだ軌跡を、ここに一挙掲載。
ある朝、目が覚めると自分だけの秘密を世間の誰もが知っていた。
昔からのスピッツ・ファンにとって、彼らのいきなりのブレイクはそんな感じだったんじゃないだろうか。そして、新しいファンにとっては未知への扉。扉の無効に吹いている風とこちら側の風が、控えめに開いていた扉をゆっくりと押し開けた。
扉が全開になっても、スピッツの持つ秘密の匂いは色褪せない。9/20にリリースされる6枚目のアルバム『ハチミツ』を機に、そんな彼らの過去・現在・未来を誌面に載せてみようと思う。まずは、ヴォーカルの草野マサムネにスピッツ結成前夜から今に至るまでを語ってもらった。大変なヴォリュームだとは思うけれど、どうかお付き合いのほどを。これでも足りないぐらい彼らの秘密は深く、色濃いのだ。
ブルーハーツはコロンブスの卵だった。(〜'87)
--まずは、メンバーとの出会いから結成までをきかせてください。
マ 田村とは上京してきて1ヵ月ぐらいで知り合ってた。学校が一緒だったんです、東京造形大学。俺は1年で武蔵野美大に移ったんだけど。造形大の重音楽部というのに入ってて。普通は軽音だけど造形大の軽音はジャズでね。俺と田村と、そこのドラマーとでバンドを始めた。それがスピッツのおおもとの母体ですね。名前はチーターズ。「365歩のマーチ」のパンク・アレンジとかやってて(笑)。その頃の俺はバリバリのインディーズ&宝島少年で。日本のインディーズの盛り上がりに憧れがあってチーターズにもその影響がもろで。それに俺と田村のルーツのチープトリック、キッスの要素もありのごちゃまぜのバンドだった
--オリジナルをやってたの?
マ うん。今でも覚えてるのは「まむしのうた」。造形の入学式の時に校長が「学内でまむしが出るから気をつけてください」って言ったのを茶化した歌で。それがチーターズ初めてのオリジナル。最初は学内のイベントぐらいで満足してたんだけど、ライヴハウスへ通ううちに自分たちも出たいという気持ちになってきて。新宿ロフトに憧れもあって、ロフトに出られるようなバンドにしたいって欲が出てきた。当時いちばん影響を受けたバンドがブルーハーツ。なんかコロンブスの卵というか、俺は回りくどいやり方をしてたのが全部否定されちゃったような気分になった。強いメロディと強い歌詞があればそれで十分なんだって
--確かに当時のブルーハーツのインパクトって群を抜いてましたね。くさいこと歌ってるのにくさくないっていう。
マ すごく嫉妬したし、自分に自信もなくなっちゃうぐらいのショックだった。かっこつけてる他のバンドがみんなバカに見えちゃうぐらいの存在感で。いちばん羨ましく感じたのはバンドの4人がそれぞれ別のオーラを放ってて、その力関係に妙に緊張感があって、バンドっていいなぁって感じだった。それで本腰入れてバンドをやろう、ブルーハーツみたいなバンドを作るんだって18歳の俺は決意してですね、チーターズを一旦解散して。田村は話の合う奴だったから、もう1回一緒にやろうと。それで田村の幼なじみだったテツヤに会って、これであとはドラムが入れば結構いいバンドができるかもと思ってた。テツヤと同じ文化服装学院にいた黒ちゃんというドラマーと一緒にやるつもりだったんだけど練習にあんまり来ないんですよ。あとで聞いたら、俺ら3人があまりにもマジになってたから怖くなってひいちゃったらしい(笑)。崎ちゃんは文化服装のサークルの他のバンドのドラマーでね。当時は上下とも黒で、前髪で片目が隠れてるような一歩間違えばヴィジュアル系というルックスで(笑)。でもドラムの感じが軽快でかっこよかったから、ああいう奴が一緒にやってくれたらと思ってた。で、テツヤにアプローチしてもらって。それが87年の夏
「恋のうた」はひとつの転機だった。('88〜'89)
--で、いよいよスピッツ結成と。
マ 当時はブルーハーツ、KENZI、POGOといったバンドのフォロワーですね、俺らの出てき方というのは。同世代で同じような扱いを受けていたバンドというと、ウェルズとかBOOMもそうかな
--新宿JAM、渋谷ラ・ママが拠点で。スピッツというと新宿ロフトという印象もあるんだけど。
マ ロフトにいちばん出たかったんだけど、自分からアプローチして出るというのは嫌だったの。ロフトから出てくれと言われるようになるまでは他のライヴハウスで頑張ろうと。そのうちだんだんとバンド・ブームの波が来て、俺らも徐々に注目されはじめて。ブルーハーツみたいな曲ばっかりやってる頃は全然注目されなかったんだけど、これじゃダメなんじゃないかってアコースティック・ギターを持つことにしたんです。ブルーハーツと自分らの決定的に違うところ、なんか女々しいというか少女漫画的な部分があるんじゃないかと自覚して。当時かっこいいなと思って聴いてたのがドノバンというシンガーソングライターで、あんな感じでアコギを持ったらどうかと。その頃はヴォーカルがアコギを持ってステージに立ってるバンドは少なかったんですよ。アコースティック・テイストの入ったビート・パンク、これは新しいって見られたみたい
--それでサウンド的にも展開した?
マ うん。アコースティックのストロークがしやすい曲を作りはじめて、サイケな要素も入ってきてね。そのあたりからビート・パンクとは離れていった。そんな頃作ったソノシートが「鳥になって」。少しずつたまったライヴのギャラで自主制作。ギャラを飲み会とかには絶対使わなかったんですよ(笑)
--最近、話題になってる「おっぱい」と「恋のうた」は、この頃の曲ですよね。
マ 「恋のうた」はひとつの転機だったんです。8ビートの直線的な曲ばかりやってた時に、いきなりアコギで『こういう曲をやりたいんだけど』ってもってった曲で。崎ちゃんとかは最初は唖然としてましたね(笑)。そこから一気に色々なことをやろうという方向にみんなの好奇心が移っていった、そんな記念すべき曲
--ロフトに出るのはその頃?
マ うん。ロフトの荒さんという人の目に止まって。荒さんは60〜70年代の要素を俺たちにかぎとったようで。その頃のロフトはビート・パンク系のバンドばかりだったから、ここらで違うものを出したいって感じで、マンスリーで出してくれるようになった
デビューすることに憧れはなかった。('90)
--それでミストラル(新宿ロフトのインディーズ・レーベル)からCDをリリースすることになるんだ。
マ 「そう。でもすべては最初のソノシートから始まってる。ソノシートという名刺が出来たことで、色んなところに行き渡ったんで。今のレコード会社にしてもそう。実はミストラルでCDを作る前にポリドールの人とは会ってた。メジャーで出すにはどうしたらいいか、インディーズで王様になるほうがいいのかって悩んでいた時期でもあって。あ、まぁミストラルから出して。バンド・ブームということもあって、レコード会社のいわゆるスカウトの人も大勢観に来るようになってですね
--スカウトというか、青田刈りというか。
マ そういう言われ方もされていましたが、俺らはそのへんは割り切って考えてた。ごはんだけおごってもらうという(笑)。バブルの時期というのもあったんだろうけど、結構いいものをおごってくれましたね。どこどこは居酒屋だったけど、あそこは寿司だったとか(笑)
--ポリドールはどうだったわけ?
マ 高級じゃなかったけど回数が多かった(笑)。今のディレクターの竹内さんという人が、どんなに遠い地方でライヴをやっても観に来てたの。彼自身も「あの頃の俺の情熱は何だったのかわからない」って言ってるぐらい(笑)。デビューの話は色々あったんだけど、俺たちは”石橋を叩いて結局水の中を渡る”みたいな性格なんで。次々と友達のバンドがデビューしてたんだけど必ずしも幸せになってないという例も多くてね。なんかわかんないけど印税が入ってこないとか。それでとにかくバンド・ブームが終わるまで待とうと。終わっても声をかけてきれくれる人が多分本物だからって。周りを見ているとレコード会社を先に決めて失敗してるんですよ。だからまず事務所を、バンドの味方になってくれるプロダクションを決めようってことになって。どうやったらバンドのためにいいのかってメンバー4人ですごく話し合ってた。その時の4人の結託は後にも先にもないぐらい。運命共同体みたいな感じでね。俺らはそんな感じでデビューすることに憧れはまったくなかったんです。今の人にはわからないかもしれないけど、当時はインディーズのシーンのほうがかっこよく見えた。どうしたら自分たちの音楽がよりよく伝わるか、やりたいことが出来るかって慎重に慎重を重ねて考えてましたね
お客を立たせないバンド?('91)
--デビュー直前からコンサートをライヴハウスではなくシアターでやるようになりますね。
マ まだバンド・ブームが完全に終わってなくて、ライヴハウス〜日本青年館〜渋谷公会堂というブームの図式にはまりたくなかった。今思えばそこまで考えることはなかったし、ブームから出てきたバンドだったからこそ考えちゃったんだろうな。その結果、お客さんはみんな立たなくなっちゃった(笑)
--そうだった。1回目のシアターモリエールでは、お客さん微動だにせずといった感じで。
マ ものすごい緊張感でしたね。そのライヴ評で「お客さんを立たせないバンド」とか書かれたんだけど、別に俺らは立つなとは一言も言ってないし、お客さんが好きでそうしてるだけなんだよぉって(笑)。ロフトはオール・スタンディングだから、ノリノリではないにしても好きなように揺れてる感じだったのが急に劇場で固定の椅子のあるところだったから、俺らもお客さんも慣れてなくて、なんかかしこまった感じになっちゃった。今、思い出しても不本意なライヴだった気はする
--ファーストはそれまで書きためてた曲が中心で?
マ 半分ぐらいは。セカンドもそうですね。アマチュア時代の曲半分に新曲半分。近所のレコード屋に自分のCDが置いてあるのが変な感じでしたね。俺はこんなもんかなと思ってたけど、田村はもっと話題になってもいいのにって思ってたみたい。でも、色んなことに迷いもあってね。「お客さんを立たせないバンド」という誤解もありの、中には「ロックっぽくなったフリッパーズ」というのもありので、全然違うのにと思ってて。注目されれば誤解もされるから、人の目がすごく気になっていた時期でしたね
--それはセカンドの頃には?
マ そのへんは大分慣れてきて、デビューした惰性でやってたかも(笑)。なんとなくレコーディングしちゃった感じなんですよ、セカンドは。その頃あった曲を全部録って、結局入らなかった曲もあって未だに日の目を見てない
『オーロラ』からライド歌謡、そして…('92年)
--セカンドから間を置かずに企画盤『オーロラになれなかった人のために』を出してますね。
マ セカンドの「魔女旅に出る」のバンドのテイクを録った時点で、これにホーンやストリングスを加えると今までなかった面白い曲になるんじゃないかって盛り上がって。その頃ピチカート・ファイヴの『カップルズ』がすごく好きで、そのアレンジをやってた長谷川智樹さんにお願いして。当時はスローな曲はバンドではなかなか出来なかったんです。どうも上手くアレンジできなくてボツになっちゃう曲も多くて。そういうフラストレーションもあったな。バンドで出来なかった曲を長谷川さんに形にしてもらったのが『オーロラ…』。だから「涙」に至ってはバンドの音はひとつも入ってない(笑)
--セカンドまで一気にきて、一息ついたという感じの節目にあたる作品だと思いますが。
マ セカンドも惰性とか言ったけど、その分力みがなくて自然な感じは出てると思う。セカンドがいちばん好きという人も多いしね。まぁ『オーロラ…』ははっきり言ってバンドじゃないからね。この反動だな、3枚目が全面的にバンド・サウンドになったのは。これを作ったことによって、バンドでやるってことが俺にとっての基本なんだってこともわかった。スピッツの4人でやることが基本にあるから、こういうことも出来たんだって冷静にわかったから。そういう意味で勉強になったアルバムですね
--発売時によみうりホールでライヴをやりましたよね。あれはいいコンサートだった。
マ 1回きりのね。俺も楽しめた。思い出に残るベスト3に入るライヴですね。あの日に尾崎豊が死んだんで、雑誌関係の人はあんまり来なかった(笑)。メンバー以外の人がステージに居るというのも初めてで印象的だった。長谷川さんがキーボードで、ホーンやストリングスの人もいて、贅沢な使い方でね
--で、『オーロラ…』の反動で『惑星のかけら』へいくと。
マ うん。ギターの歪み系の音にがんがんいっちゃった(笑)。当時俺とテツヤの間で流行ってたライド、マイ・ブラディ・バレンタイン、ニルヴァーナ、スマッシング・パンプキンズといった歪み系。一方で「僕の天使マリ」みたいなカントリー・テイストのある曲も入れたり。バンドの4人で出来る色んなことをやったアルバムですね。純粋に自分の趣味で好きな音をスピッツに反映させた感じ。「シュラフ」とかは、実はジェスロ・タル(プログレの元祖のようなバンドのひとつ)が好きで
--ええっ、それは初耳。
マ 初期のですけどね(笑)。1曲毎にこれはあのバンドのテイストっていうキーワードがあって
--このアルバムはもっと認められるんじゃないかという自信のもとに出したと言ってましたが。
マ 色んな面で新境地を開いたと思ってたしね、当時は。冗談めかして”ライド歌謡”とも言ってた、語呂がいいから(笑)。歌詞に関してもかなり力入れて作ったし。結果的には思ったほどの反響はなかったけど、ライヴのお客さんは増え出してはいた。ただ一気にはつかめなかった。それでまた、このままでいいのかなと思っちゃった。新しい目標や飛び越えるべきハードルがないとダメなんです。頑張れないし、楽しくない。そこで新しいハードルをどこに設定するかと言ったら、『Crispy!』に移行するときに意識したのはチャートですね、はっきり言っちゃうと
原液のカルピスか、適量に薄めたカルピスか。('93)
マ これは今でも思うんだけど、その中に物凄く自分の心を揺り動かす音楽とそうでない音楽があって、それがチャートというものによって順列を付けられているのに我慢が出来なかった。俺らはそういうものとは関係ないと思ってたんだけど、チャートに入ったことがなくて関係ないって言ってるのと入って言ってるのとでは全然意味が違うでしょ。そのへんが納得いかなかったんで、1回ぐらい売れ線を狙ってみてもいいんじゃないかって思っちゃった
--そう意識した時に、売れるんだという主眼で曲自体を変えてしまう場合のほうがどちらかと言えば多いと思うんです。ところが『Crispy!』は今聴いても、たとえば1曲目ではどうしてこういうサウンド、こういうアレンジなんだろうって拒否反応を起こす部分はあるんだけど、曲自体はそれ以前となんら変わってないでしょう?
マ そうなんです(笑)。笹路さんとの関係というか、笹路さんが違ったんですよ。ユニコーンやプリプリを売った人というイメージを勝手に持ってたら、全然そういう人ではなかった。アーティストが持っている隠れた良さを上手く引き出す人で。スピッツも『空の飛び方』と今回のでは引き出されているけれど、『Crispy!』の時は本当はそういう仕事をする笹路さんに対して、俺らのほうが”売れるアレンジをしてくれる人”というやましい考えを持って接していた。それで噛み合っていない部分もあって
--アルバムが完成した当時は、上がったものを聴いてどう思っていたんですか?
マ 実は笹路さんと作業しているうちに、売れるものを狙うというのは俺らにとって意味がないんじゃないかという考えに戻っていっちゃって。大体ね、売れ線を狙って作られている音楽って好きじゃないんです。僕はいつもミュージシャンとしてよりもリスナーとしての自分がまず基本にあるからそういうふうに言えるんだけども。日本だけじゃなく英米の音楽でも、アンダーグラウンドな匂いを持ってるものにひかれちゃう。そういう人間が売れ線を狙っていいものが作れるわけないんですよね。もともとそういうの、持ってないんだから。持ってないものをプロデューサーが引き出せるわけもない
--あとね、昔は歌詞のなかで”愛”という言葉はあまり使わなかったでしょう?それが『Crispy!』では”愛”を使うようになって。
マ そう、狙って使ってたんだ、あの時は。ラジオで聴く人の耳をつかむのはサビだ!とか言って、Aメロでどんなにアヴァンギャルドな歌詞がきてもサビはわかりやすい詞にしなきゃダメだって。「君を愛してる」とか「君が思い出になる前に」とかね
--それが今では狙ってるんじゃなく、普通になってきてるようなところはありませんか?
マ たとえば”愛”って言葉に関しては昔はとにかくダメ!って感じだったんだけど、言葉ってその前後関係によって表情を変えるんですよね。それによってはどんな言葉でも使えるって思うようになった。禁じ手にしていた字余り・字足らずとか、リズムに乗りにくい言葉をあえて乗せることによって強いインパクトを持たせる方法とかも。それも『Crispy!』からの収穫ですね。まぁ、明るくはなりましたね、それ以降は(笑)。あと昔は言葉と言葉のコラージュによって生まれる味わいや緊張感に興味があったんだけど、ストーリーを設定して歌詞を作っていくほうが楽しくなっちゃって。言葉自体、昔の曲で言うと「ヒバリのこころ」とか、あるひとつの言葉に持っていくために歌詞を作っていたんです。でも今はもう「ヒバリ…」みたいな曲は作れない。逆に狙いすぎのような気がしちゃって。ずっと歌い続けてるから何の抵抗もなく歌えてますけど、今、作れと言われてもああいう言葉の使い方はできない。『Crispy!』以前はコップにカルピスの原液をそのまま出していたのが、今はちゃんと水で薄めて、でもちゃんと同じ原液の量を飲ませているって感じになってきたんじゃないかな。原液の濃さがいいって飲んじゃう人もいるんだけど、沢山の人は飲めないでしょう
--おいしく飲むことはできないと。マサムネくん自身はどうなんです?どちらのほうがおいしく飲めるのかな?
マ 適量に薄めて飲むほうですね。でも世間に溢れているような音楽のほとんどがカルピスの色はしているけれど、実は絵の具だったりするから(笑)。スピッツはカルピスであることに変わりはない
『空の飛び方』は難産の末に生まれた子供。('94)
--94年からはいわゆるアルバムの販促ツアーではない春のツアーをやってますね。
マ 行ったことのない地方を回ったんです。そういう場所でも自分たちを観に来てくれる人がいっぱいいるというのは不思議でもあり、嬉しくもあり。その頃はもう次のアルバムの構想が頭の中にあってね。3、4枚目にあったようなちょっとおまけ的な意識はとっぱらって、本当にニュートラルな姿勢でやりたい曲を作っていって。レコーディングでメンバーのプレイにもあまり口出ししないようにして
--それは意識的に?
マ 意識的なものもあったけど、言わなくてもいいのができそうな予感もあって。本当にちゃんと4人均等な力の入れ具合で作りたかったから。みんなで納得して、自信を持って世に出せるものを
--そこに行き着くまでに、バンド内でも色々あったわけで?エンジニアにNG出した以外にも、田村くんから「俺たちこのままやっていけるのかな」っていうような声もあったとか。
マ レコーディングの始めにバンドとしてのスランプを迎えちゃったんですよ。メンバーはみんな深刻に考えちゃって。俺は3日も経てば直るって思ってたんだけどね。スタジオで4人で音を出してもしっくりこない。なんかダメなんです。曲が悪いのかなとも思ったんだけど、そんなことはないってみんな言うし。その日は何回やってもダメで。だけど2、3日後にはばっちりうまくいったんだけど(笑)。そういう時期もあるんですよ、バンドには。たまたまそこまで顕著な事態はそれまでなかっただけで。今思えばね、その直前までライヴやってたからライヴの感覚が抜け切らなかったんじゃないかな。俺は結構あっけらかんとしてたけど、帰りの車の中で田村が「これはバンドの危機かもしれない」とか言っててね。アイツがいちばん深刻そうだった(笑)
--そこを乗り越えて、アルバムがリリースされた頃にはみんな自信満々でしたよね(笑)。
マ そんなこんなでごたごたしてたから、スケジュールもきつくなったし周りに迷惑もかけたし。難産の末に生まれた子供って感じですね(笑)
聴く度に変わったバンドだなって安心する。('95)
--今回のアルバムは、自分で聴いてみてどう?
マ 聴く度にね、ああ、やっぱり変わったバンドだなって感じて安心する(笑)
--確かに変わってますよねぇ。全員にインタビューしてる時なんかいつも実感します(笑)。
マ ロックっぽくないですよね、みんな。不思議な関係だと俺自身も思う。昔から近所に住んでる知り合いって雰囲気ですね
--出てくる音にしても実験的な部分というのも、最終的には実験には聴こえないし。
マ 実は今回はラップを作ってみようというアイデアもあったんですけどね
--スピッツのラップとは!?サウンド的にも今のヒップホップみたいになるとはとても思えない。
マ スピッツらしいラップを。バンドの音にちゃんと韻を踏んである言葉を乗せて、ぼそぼそやる(笑)。イメージが近かったのはTOKYO NO.1 SOULSET。でもね、あれはすごく不完全だと思うから、これを俺が完成できたらすごいかなって。高慢な言い方だけどね(笑)。あとMC ATとかね、本当の意味でのヒップホップじゃないんだろうけど、彼独自のもので。Aメロでラップやってサビで歌う(笑)。それって考え方によっては「母に捧げるバラード」に近い
--そうだったか!!(笑)。ところで、最近の恋の歌には実生活が反映されてるんじゃないですか?
マ う〜ん、反映されている部分はあるけどすべてではないですね。実際に恋人と別れたからって別れの歌が多くなるってことはない。基本的には歌詞は僕の空想の産物なんだけれども、間接的にその時の気分や事件は反映されてる。彼女との生活はなんか変なとこで反映される。上手くいってないのにこんな歌詞歌えないとか、上手くいってるのになんで別れの歌作っちゃったんだろうとか(笑)。それでその曲は引っ込めたりして。俺はある程度形になるまでは恋人にも友達にも聴かせないんだけど、形になって聴かせて感想を聞くのは楽しみだったりする。いいリスナーですよ。余談ですけど、俺は「ロビンソン」は地味だから気に入ってくれないだろうと思ってて、彼女や友達に聴かせたら「すっごくいい曲だね」ってみんな言うんで、自分で驚いちゃった
--そういうことかもしれないですね、売れたってことは。
マ うん。そうかもしれない