書生風多摩生
一・一 ベースボールの誕生
カートライトが考案したものは、ニューヨーク式と呼ばれており、アメリカには他にベースボール(マサチューセッツ式など)と呼ばれるものがあった。また、ニューヨークでも幾つものルールがあったのだが、ニッカーボッカールールを基にし1857年ニューヨーク近辺の統一ルールを制定したので、カートライトの考案したものが今日の野球の祖先といえる。
説によってはニューヨーク式、マサチューセッツ式と分かれているうちはベースボールでなく、ベースボールの元になったタウンボールという名称を使うべきともいわれるようだ。タウンボールは4つのベースがあるものの、人数に関する決まりがないなど、遊びとしての要素が多いものである。
今日のベースボールの直接的な祖先であるタウンボールが「ベースボール」という名になったのはニッカボッカークラブでプレーされるようになってからのようだが、マサチューセッツ式のタウンボールは「マサチューセッツゲーム・オブ・ベースボール」と以前から呼ばれていたし、イギリスに於いてもタウンボールの祖先にあたるスポーツ、クリケットから派生した遊び(つまり、今日のベースボールの親であるタウンボールの兄弟にあたる)に「base-ball」と称されるものがあったともいわれている。こういった点から、元々タウンボールとベースボールに境界線を引くことは難しいのである。ニューヨーク式より前からベースボールの名はあったし、ベースボールとは地域ごとに少しづつルールの異なっていたタウンボールの別名程度しかなかったと思われる。
少し話が複雑になったのでここまでを私なりに整理してみると、次のようになるのではないかと思われる。まず、そもそもイギリスに於いてベースボールよりも明らかに昔からクリケットが行われていた、少なくともこれは事実である。そして、日本人には馴染みがないので少し解説しておくと、クリケットはとても時間がかかり、一試合に数日かかることもあるような競技であった。そのため、クリケットを改良し短時間で遊べるようにしたゲームがイギリス各地で行われていた。その一つに既にベースボールと呼ばれるものがあったのは前述の通りである。また、その中の一つにアメリカで行われていたタウンボールも分類できる。つまり、初期ベースボール(この初期ベースボールとはある特定の競技ではなく、ニューヨーク式以前にベースボールと呼ばれたすべての競技を指す)とタウンボールはクリケットから派生した親戚であった。そして、初期ベースボールは遊戯であったのに対し、タウンボールのルールを整備することで誕生したニューヨーク式ベースボールは今日のベースボールに近いルールを持ち、記録として残っている。このようにニューヨーク式のルールが直接的原案になっていることからカートライトをベースボールの創始者とし、ニューヨーク式を以ってベースボールの原型とすることにした。
ニューヨーク式を基に他地方でもタウンボールや初期ベースボールからニューヨーク式に近いベースボールが生まれた。特に、改良されたマサチューセッツ式は本家のニューヨーク式と同じほどプレーされた。その後、南北戦争のときにニューヨーク式が一般ルールとして全土に広まったようである。
ベースボールの発祥についてはいずれ、このページを更に書き足すとき(バージョンアップ)に、付け加える試みをするかもしれないが、日本における野球の歴史には大きな影響を与えない情報だと思うので今回はこの程度で終わる。何せ、ベースボールが盛んに行われるようになるにはアメリカの歴史を把握しないといけないので大変なのである。大変とはいえ、タウンボールも興味深いものであるから、一通りの野球史が完成したら直ちにこの部分の加筆に取り掛かるつもりである。
一・二 ベースボールの伝来
しかし、これに異論を唱える人もいる。それは、ベースボールをきちんとプレーしていないと解釈できるためである。今日でいうところのノック練習のようなことをしてベースボールといえるのか、ということである。試合を行ったことをもってベースボールの伝来ということになると、第一大学区第一番中学にそのような記録は残っていない。同校は1873年に開成学校となるが、開成学校でベースボールが行われていたという記録は残っている。
上記の引用は『真説日本野球史 明治篇』(大和球士著)で大和氏が『クラーク博士とその弟子たち』という本の中で発見した文章である。当然、クラーク博士というのはboys, be ambitious! で知られる博士であり、北海道大学の前身、札幌農学校で教鞭をとった人物である。札幌農学校と開成学校は北海道と東京なので「垣一重」というのはしっくりこないが、この文章は『クラーク博士とその弟子たち』で東京英語学校について触れている箇所で登場するから間違いではない。
では、試合の形式を持ってベースボール伝来とするならば、開成学校の1873年であるのかというと、大和氏は『真説日本野球史 明治篇』でそれを疑っている。氏は『北海道百年』を注意深く読み、事実関係の整理をし、『クラーク博士とその弟子たち』と対比をしてみると、東京芝の増上寺内に設立された開拓使(当時の官庁の一つ)の有する教育機関、開拓使仮学校が1873年に開校しており、同校英語教師アルバート・ベーツが無類の野球好きであったことが判明したという。
これらの「視点」と「発見」は長年に渡り日本で考えられてきた定説を覆すものとして注目に値すると私は思う(後日番外編として日本野球の歴史の伝わり方について触れるつもりであるが、この世界では嘘か真か分からない説がまかり通っており、いくつもの文献を読む必要があることを痛感させてくれた)。ベーツは開拓使仮学校でどうしてもベースボールがしたくなり、学生に教えたという記録があることを大和氏は発見したのだ。
この明治六年とは1873年であるから、開成学校と開拓使仮学校はほぼ同時期にベースボールを始めたといえる。では、厳密にどちらが先であったのかを考えてみたいが、ここから先は資料不足でどちらともいえないようである。
大和氏は1873年の4月15日、開拓使仮学校再開の後すぐにベーツが指導したと仮定し(同校は不真面目な学生にあきれて激怒した教員により一時休校となっていた)、開成学校の開校式が同年10月9日(天皇陛下が参加されたということで新聞記事になっている)であることから開拓使仮学校こそ日本ベースボールの起源であろうと結論付けている。しかし、私は大和氏の説に欠点を見言い出している。それは氏自信も気付いており、著作の中で触れていることであるが、開校式と開校を同一視することの問題である。わざわざ天皇陛下を呼んで式典を上げているのだから陛下の予定に合わせている可能性は極めて高いといえる。そこで、私が調べたところ(東京大学広報委員会の「学部・大学院沿革」を参考にした)、開成学校は4月に開校となり、翌年の5月に「東京開成学校」と改称していることが分かった。それに、1872年にノックをしだし、一年間も試合をやらないというのはおかしな話である。
これにより、大和氏の開拓使仮学校説は完全なものではなくなったが、しかし、開成学校と言い切ることもできない。そこで私は、試合をもってベースボールの始まりとするならば、その起源はどの記録にも残っていないのではないかと推測する。もし、妥協して記録として残っている最も古いものということになると、既出の2説のいずれかであり、二つの検証が必要だと考えている。
一 開拓使仮学校から米国に留学していた得能通要、大山助市、服部敬次郎の帰国時期
まず、留学生の帰国に関してであるが、『クラーク博士とその弟子たち』によると3人が帰国した頃というのは、ベーツが言葉の壁に苦しんでいたころとされているからである。英語で学生に指導するのが大変であったが、帰国者の通訳により上手くルールや技術の伝達が可能になった。この時期はベーツが指導を開始した初期と記されている。これで、開拓使仮学校での開始時期がかなり絞り込めることになる。
次に、開成学校のグランド使用が開始された時期を知ることで同校の試合が最も遅くともその頃には行われていたと推測できるからである。
現代のことであれば、役所に資料も残っているし、当時を生きていた方のお話を伺うこともできる。しかし、明治の一桁代ともなると運良く資料が見つからなければ当時の詳しいことを知るのは不可能である。これからこの点の研究者が出てきちんと調査してくれることを願うばかりである。
そして、第三のルートとして熊本洋学校でもベースボールの指導がなされていたのだが、これについては年号を確かめられる資料がないのでいつから指導が始まったのか全く分からない。ただ、1871年に設立された同校は1875年に廃校となっているのでその間であることだけは確認できる。この第三のルートは熊本洋学校の廃校で途切れてしまったのではなく、廃校に伴い学生の集団転入を受け入れた同志社英学校にベースボールを持ち込むことになる。余談になるが、開拓使仮学校の後の姿である札幌農学校と熊本洋学校はそれぞれ札幌バンド、熊本バンド由来の二校である。これらの学校にいち早くベースボールが伝わっている事実は、キリスト教に限らず多くの外国文化が伝えられていたことがよく分かる興味深い接点といえると思う。
さて、これという決め手に欠き、結論が出なかったが、いずれにせよ学生がベースボールを始めたのは間違いない。これは、高等教育機関でもなければアメリカ人と接することがないから当然だと思われる。では、彼らが世に広めたのかというと100%がそうではない。1876年ニューヨークのダイヤモンドクラブでベースボールをやったという平岡熙が帰国し、ベースボールを本格的に始めたのだ。彼は私費で1871年にアメリカ留学し、鉄道技術を学び、帰国の翌年、工部省鉄道局に奉職した。彼はベースボールを同僚に教え、新橋アスレチッククラブを編成した。これこそ日本初のベースボールチームである。日本におけるベースボールの大幅な発展には学生野球が欠かせないが、新橋アスレチッククラブが存在していたことは忘れてはならない事実である。そして、今日スポーツチームにジャイアンツ(野球)、アントラーズ(サッカー)などチーム愛称があるのは当然のことであるが、日本初のチームが既に「アスレチック」という別称を持っていたことは驚きに値することを付け加えておく。
ちなみに新橋アスレチッククラブは、平岡がアメリカから持ち帰ったボールの構造を研究し、神田今川小路の靴屋にボールを作らせていたという話もある。一方、開成学校では木戸が持ち帰った唯一つのボールを大切に使っていた(破けても縫い合わせて使った)。 道具については次章「野球の普及」に譲りたい。
一・三 ベースボールの面白さ
ベースボールが伝わった当時、日本の学校では今日の「体育」にあたる授業がなかったという。また、当時行われていた運動といえば、柔道、剣道を始めとする武道、陸上競技や漕艇などの速さを競うルールの分かりやすい競技だけであった。
こんな時代に、ベースボールやテニスが紹介されれば、その面白さは今日では想像できないものであろう。これといった娯楽もない頃の運動のもつ意味も大きい。そして、一本の棒と一つの球さえあれば、つたないながらも競技として成立するから、ルールさえ理解できれば誰にでもチャレンジすることができた。このようなベースボール自体の相対的面白さ、手軽さは次章で詳しく触れる精神論以前の段階として当然あったものと考えてよいだろう。この点からすれば、万が一サッカーがベースボールより先に外国から紹介されていたら、ブラジル張りのサッカー王国になっていても不思議ではないと、私は考えている(しかし、他の点からするとサッカーが明治日本で流行しない訳も存在する)。サッカーが明治日本でベースボールほど人気が出なかった理由は後に記すつもりなのでここでは言及しない。
【野球の普及前半】につづく
baseballと呼ばれるスポーツは幾つか存在していた事が知られている。今日一般的にベースボールと呼ばれているスポーツもその一つであった。現代様式の基となったベースボールは1845年、Knickerbockers(ニッカーボッカーズ)というクラブの一員だったA-Cartwright(A・カートライト)に当時アメリカで行われていたタウンボールのルール整備をする形で考案された。カートライトは組織した消防団が普段運動不足なのを懸念し、団員の運動不足を解消するためにタウンボールを改良したといわれている。
アメリカで生まれたベースボールを日本に伝えたのはアメリカ人教師、Horace Wilson(ホレース・ウィルソン)だといわれている。彼は南北戦争に参戦していた頃にベースボールを覚え、終戦後に第一大学区第一番中学(開成学校→東京大学→帝国大学…と改称)で1871年〜1877年まで英語と数学を教えていた。彼が1872年神田一橋の同校校庭で学生に自分の打球を捕らせたという記録があり、これをベースボールの伝来とするのが野球研究家の通説である。その後、アメリカ留学から帰ってきた木戸孝正(来原彦太郎)、牧野伸顕らの同校入学によりベースボールが知られるようになった。アメリカでベースボールが産声をあげてから約30年後のことである。明治政府が廃刀令を出し、軍人、警官以外の帯刀を禁じるのが1876年であるから、いかに古くベースボールが伝来したか分かるだろう。
そもそも、寛政9年(1798年)にできた昌平坂学問所は昌平学校を経て1869年6月に大学校となった。それと同時に天文方、洋学所の流れを汲んでいた開成学校(ややこしいがこの開成学校は改称を繰り返し、再び同じ名前に戻るのである)と種痘所、医学所の流れを汲んでいた医学校兼病院がそれぞれ大学校分局となる。同年12月に大学校が大学と改称すると、旧開成学校系列は大学南校、旧医学校兼病院系列は大学東校となる。
大学南校は南校→第一大学区第一番中学→(第一大学区)開成学校(改称され4年前の元の名に戻った)→東京開成学校となる。
大学東校は東校→第一大学区医学校→東京医学校となる。その間に大学は閉鎖の後廃止となってしまう。
そして、1877年4月東京開成学校を改組し、法・理・文学部、東京医学校を改組し医学部とし、同時に東京大学予備門を設立、東京大学が4学部+予備門でスタートをきる、ここに今日の東大の原型を見ることとなる。
1886年に大学予備門を第一高等中学校と改称した。なお、後にしばしば登場する第一高等学校も東京大学の前身のひとつであり、大学予備門の流れである。大学予備門→第一高等中学校(高等中学校は尋常中学校と違い「社会多数の思想を左右するに足るべきもの」を養成するための中学であった)→第一高等学校(高等中学校の時点から通称は「一高」であった)。一高は戦後に東京高等学校などとともに東大の一部となる。後に学制については詳しく述べる。
最初に日本に野球を伝えたホレース・ウィルソンもその一人で、第一大学区第一番中学で教えた。彼の後任者で開成学校で教えたエドワード・マジエットも学生にベースボールを教えていたらしい。
二 開成学校のグランド使用開始時期
ベースボールは日本に伝わると、凄まじい勢いで全国津々浦々まで広まっていった。その大きな理由として、一高(開成学校の後東京大学となったときの予備門が改称して一高となる)に最初に伝わっているというのがあげられるだろう。その点と新橋アスレチッククラブのことも次章「野球の普及」に譲りたいが、なぜベースボールが好かれたのかという考察だけ行っておきたい。
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