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二. ベースボールの普及  version1.0

書生風多摩生

 他の章と時代が重複または前後することもあるが、章は何に注目して野球を見ているかを分けているものである。その点は考慮して読んでいただきたい。二章を分割したのは長くなりすぎて読みづらくなるからである。

 二・四 「野球」と命名
 一高ベースボール会黄金時代は前項よりスタートしているわけだが、前項最後部分で触れているようにまだ国内のアメリカ人が大きな敵として仁王立ちしていたのも事実である。当然、一高生としては国内最強の名を求めて、また日本チームを代表して世界レベルのアメリカ人との対戦を望んだ。勝手に日本人を代表したつもりになっているのが、いかにも一高生らしい。幕末の頃は外国人は多摩川を越すのに手続きが必要であまり江戸には行けなかったが、明治も中頃を過ぎるとそういうこともなく、東京に外国人がいなかったわけではない。しかし、幕末に開港した横浜には外国人のための居留地があったから、当時最も多く外国人が住んでいたのは横浜の関内周辺である。一高は東京のアメリカ人チームにも、横浜のチームにも試合の話を持ちかけたが、日本人の子どものたわ言であるとでも思われたのか、なかなか試合を承諾してくれなかった。

 一向に試合の目途が立たないままついに、第一高等中学校は学制改革(1894年高等学校令)により第一高等学校となった。実はこの1894年に「野球」が生まれている。既に何度も登場している中馬が1895年に出版した部史でベースボール会をテニス=庭球からヒントを得て野球部と呼んだ。これについては歴史的な出来事であるからなんとしても本を見つけて自分の目で読み、今度加筆を試みたい。一応、一般的に知られている正岡子規命名説の否定だけしていおこう。子規が「野球」という号を用い始めた時期が中馬による命名以前であったことは子規の手紙などから明らかになっている。しかし、子規自身がベースボールに適当な言葉が無い、と明言している新聞記事がある。つまり、号はあくまで号であり、ベースボールとは無関係のものだったのだ。無関係といってもベースボール好きの子規が本名「昇(のぼる)」を野、ボールとしたのだから全く関係ないとはいえない。しかし、子規にとってベースボール=野球でないことは間違いなく、子規命名説は子規の弟子によるデマである。

 本文でも以後は「野球」と呼び、特別に区別したいときのみ「ベースボール」とする。

 なかなか承諾してくれなかった外国人だったが、一高教師メイゾンを仲介とし、やっと試合を受けてくれることとなった。時は1896年、相手は横浜外人倶楽部(アマチュアクラブとも呼ばれる)、場所は横浜である。横浜外人倶楽部は現在横浜スタジアムのある横浜公園でスポーツをして余暇を過ごす外国人のクラブであり、野球、テニス、クリケット、ボートなどを行っていた。余暇のためのスポーツとはいえ、日本人よりは断然強いと見られていた。

 この試合は一大イベントということで、いくつもの逸話、いわく、伝説が残っており、興味深いので紹介しよう。

 外国人のほうは、お遊び程度に考えていたのだろうが、当の一高は国際試合と認識していた。先日の日韓共催FIFAワールドカップに日本を代表して出場するようなものと思っていたのだ。勝つといえば「清を一蹴」、負けるといえば「黒船に強制開国させられる」といって歴史的外交事件を引き合いに出して一高の中では大騒ぎだった。学生らしい例えというか、なんとも面白いものである。一高校友会誌には「嗚呼邦人が悠々談笑の間に朱髯碧眼の異人と輸贏を決せんとするは実に建国以来の一大痛快事にあらずや、横浜在留外人は公園内に運動場を設け独り野球の技に耽りたりき」などと書かれている。

 そして、いざ試合が近づいてみれば、試合予定日は雨が降るかもしれないと予想されていた。5月23日、晴れたので試合が出来ると一高に電報が入る、「シアイデキル、スグコイ」(試合できる、すぐ来い)。今と違い、横浜まで簡単に行くことは出来ないから何時頃に到着するかを尋ねる電報も届く「ナンジニクルカ」(何時に来るか)。しかし、いざ世紀の大戦争へ、という精神状態だった彼らは受け取った電報を読み間違えた、「汝、逃ぐるか」。電報で挑発されたと思い込んだ一高メンバーはいよいよ外国人チームを八つ裂きにせん、という勢いで横浜を目指した(新橋〜横浜は日本で最初に鉄道が通った路線であり、当時約1時間30分かかった)。午後3時プレーボール、一回に4点を奪われた一高は厳しい試合になるかと覚悟した。1000人の一高応援団(今日の応援部、団のような組織ではなく、客に近いもの)も意気消沈した。しかし、その後の反撃は凄まじく、結果は29対4で一高が圧勝だった。

 この勝利が「邦人全体の勝ちである。日本がアメリカを征服したのである」(寮総代守随啓四郎の言葉)、と絶賛され、益々一高は勢いづいていく。ちなみに、アメリカやイギリスなどと幕末に結んだ不平等条約は1899年に改正され、居留地は原則的に撤廃される。それにも関わらず、現在の横浜公園中央部分に当たるクリケットグラウンドは横浜クリケットクラブが管理し続けた。まさに現在の横浜公園は最後の外国であったのだ。「日本がアメリカを征服した」その地が最後まで(1909年末)日本人の手に戻ってこなかったのは縁を感じる面白い話だろう。

 面白い逸話はこの程度にして、この勝利の意義を考えてみると、一つには一高が国内最強の地位に君臨(日本人最強ではなく)すること。そしてそれよりも重要なのは体格で劣る日本人が勝利への執念(精神)で外国人チームに勝ったということだろう。後者は彼等が築いてきた精神の野球が実証されたと捉えられるからだ。

 溜池倶楽部、波羅大学連合チームを倒した後、「野球」という言葉も作られ、日本一の座に輝き、一高野球は「実」だけでなく「名」においても完成を迎えたのである。一高野球精神は武士道の要素を含んでいることは紹介済みであるが、武士道が一高において重要であったのは横浜で勝利を収めた後に前校長の木下廣次からの手紙を読むと良く分かる。

「ベースボール国際試合に、大捷を得たる由の電報唯今読了、遂に積年の御志望を遂げられ、大慶至極と存じ候。余は猶諸君に望む。

 一.臨戦尚不失礼(戦いに臨んで礼を失わず)、勝而不慢(勝っておごらず)、敗不挫(負けて挫けず)は日本武士道の本意にして、第一高等学校のつとに特色とするところなるを。
 一.吾人少壮青年者は、独り技術の点のみならず、知識の点に於いても同じく光輝ある全勝を博するの責務あるを、記憶せられんことを。」(木下廣次が京都から一高へ送った手紙。ただし括弧内は筆者加筆)

 こうして名実ともに日本一となったことで外国人の態度も変わってきて、この後は外国人との試合もある程度行われるようになった。これについては次回バージョンアップ時に詳しく記す。

 二・五 日本中へ普及
 一高の影響を受け、それまで主に高校程度以上の学校で行われていた野球も中学にまで広がりを見せる。一高で大人気を博したのだから中学の校長達ももろ手をあげて野球を歓迎したはずである。一高に地理的に近い東京の中学は当然のことであるし、各地方の中学も野球部のような組織を次々に設立した。

 東京では既に野球をしていた学校の付属校(青山学院、学習院、明治学院の中等部や独逸協会中学)、城北中学(都立戸山高校の前身)、そして後に一高を脅かす郁文館中学などが野球部的な組織を有していた。1897年までにベースボールを行っていた中学は全国で40校以上といわれる(1894年高等学校令により高等中学校は高等学校になり、1899年中学校令で尋常中学校は中学校になる。その間の5年間は現在の高校に当たる旧制中学は全て尋常中学である)。

 その幾つかを紹介すると、青森県第二尋常中(現八戸高)、秋田尋常中(現秋田高)、福島県尋常中(現安積高)、茨城県尋常中(現水戸一高)、群馬県尋常中(現前橋高)、横浜商業(現横浜商業高)、静岡尋常中(現静岡高)、岐阜県尋常中(現岐阜高)、滋賀県尋常中(現彦根東高)、などである(この部分は当時の正式名称を確認し次第随時更新していく)。当時は各県に中学が数校しかなかったからこの普及のスピードはとても早かったといえるだろう。旧制中学を前身とする現在の高校は進学校、スポーツ校、あるいは文武両道校としてその名を全国に馳せているものが多い。


※青森県第二尋常中
=青森二中、八戸中。青森県で初めて全国中等学校優勝野球大会に出場(第12回大会)。

※秋田尋常中
=一中、秋田中。全国中等学校優勝野球大会に第1回から出場し、近年秋田商業、秋田経法大付属に押されてはいるものの文武両道校として名高い。石井浩郎の母校。

※福島県尋常中
=安積中。最近設けられた21世紀枠で春の選抜大会に出場したが、それ以外では全国大会には出場していない。東北地方は応援に力を入れる学校が多いが、安積高もその一つ、ただし共学化がどのように影響するか気になる。

※茨城県尋常中
=茨城中。茨城中分校が土浦中学、下妻中学として独立すると水戸中学と名乗る。その水戸中時代、宇都宮中と対校戦を行っているが、これは中学初めての対校戦(1896年10月27日)として価値のあるものである。

※群馬県尋常中
=前橋中。現在は1900年に分校から独立した高崎高とスポーツの対校戦を行っている(2002年現在56回目)。

※横浜商業
=現在Y高の愛称で知られる。野球部は一高野球部が外国人に勝ち、優勝祝賀会を同校敷地内で行ったことが縁で設立された。

※滋賀県尋常中
=一中、彦根中、彦根高。現在は彦根東高

 このころ、中学に通うことも大変であったことは間違いないが、高校・大学・専門学校生などに比べれば、一般的な人間だった。ついに、野球が特権的なエリートの手を離れ、庶民の楽しみとして浸透し始めたといえる。それには、一高ベースボール会が創り上げた精神論、教育的価値の高さが中学の校長をはじめ教育者に受け入れられ、積極的に捉えられたのが大きな要因だろう。やがて、小学校にも広がるが、野球の歴史について多くの著作を残した佐山氏は「ピラミッドの頂点、現在の東大から始まった野球が、流れ下って底辺に至る」と見事な例えをした。 ただ、中学、小学生の試合が盛んになるのは日露戦争前後になるため別章に譲る。

 中等の学校、地方の学校で野球が行われることでレベルの底上げがされ、高校、大学における野球勢力関係を壊していくことになった。やがて対校戦、地区での大会が行われるほどになるのは暫く後になるのでこれも詳しくは別章に譲るが、次章での早慶台頭、一高の衰退にも少なからずレベルの底上げが影響していると私は考えている。

【野球の普及 補足】につづく


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