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二. ベースボールの普及  version1.0(但し、このページに表示するのは前半のみ)

書生風多摩生

 前稿ではベースボールの伝来についてふれたが、ここでは普及の過程を順を追って説明していきたい。時間的に前後することもあるが、日本での普及という視点から著したいと思っているので混乱しないよう注意して読み進めてもらいたい。当然、「二章全体」で一つの章を構成するのであるが、ホームページにおいては、全体を一つとして表示すると長すぎて読むのに支障をきたすので止む無く二分割した。前半が二章の一〜三、後半が四、五である。

 二・一 新橋アスレチッククラブの時代と当時のベースボール
 新橋アスレチッククラブの存在は既に紹介済みであるが、平岡を始めとした彼らはとても日本初のチームとは思えないほど様々なことにチャレンジした。職場での同好会的なチームであったものの平岡が鉄道局汽車課長に昇進すると、新橋に芝を植えたグラウンドを造った。グラウンドは「保健場」と呼ばれ、毎週きちんと手入れが行われていたという。そして、立派な本拠地を手に入れた彼らは服装や道具にもこだわりをもった。

 クラブでは平岡がアメリカで実際に見てきたとおりに白の長袖シャツ、ネクタイ、白い帽子、靴を装備した。当時は褌一丁や下駄履きなど運動に不向きな服装でプレーする者も多くいたから、シャツや靴履きはとてもハイカラだったといえる。クラブではそれに加え、アメリカの知人を介してスポルディング商会からバット、マスク、プロテクターなどの道具一式を手に入れていた。ほとんどの学校でたいした道具を用いていなかったから、アメリカ帰りのエリートが中心となった新橋アスレチッククラブは当時のベースボールにおけるリーダー的存在だったといえる。

 平岡たちがリーダー的であったのは設備や道具の充実だけが理由ではない。彼らのベースボール技術の高さや知識の豊富さによるところも大きいのである。1883年前後には多くの学校でベースボールが行われるようになったが、学生がどんなに練習を積んでも新橋アスレチッククラブにはかなわなかったといわれている。このクラブが常に最新のルールを知っていたのはスポルディング商会が毎年欠かさずにルールブックを送ってくれたからだろう。


※既出の『クラーク博士とその弟子たち』には、素手でボールを取ることの痛さに耐えかねて剣道の防具などを利用した様子も書かれている。そして、開拓使仮学校のベーツはアメリカに道具の注文をし、遅くとも1975年同校が札幌農学校となる前には本場の道具を使用してベースボールをしていた。このように恵まれた道具を用いていたのは学生の中ではおそらく開拓使仮学校だけであろうから、新橋アスレチッククラブはやはり最新のスタイルをしていたといって問題ないだろう。

※アメリカ帰りのエリート
=飛行機のない時代、渡米して勉強するということは裕福な家柄でないと不可能なことであったが、留学から帰れば、エリート扱いされた。平岡は旧田安家家臣の士族であったし、クラブの仲間には華族など身分の高いものが多くいた。アスレチッククラブに対抗し伯爵徳川達孝もヘラクルスクラブと称するチームを作ったが、これも特権階級に属するハイカラな人々のものであった。達孝伯が野球を知ったのは平岡と同藩出身で平岡に英語を習っていた関係からだといわれている。

※1883年前後
=「第一期野球部創設ラッシュ」と私は名付けたい。この頃、工部大学(東大の前身の一つ)、青山英和学校(青山学院の前身)、波羅大学(明治学院の前身)、慶応義塾などに野球部と呼べるような団体が組織された

 ちなみに、ベースボールの試合は仲間内で二つのチームに分かれるか、横浜外人と戦うかのいずれかであったが、1882年に記録として残る日本チーム同士の最も古い対外試合が行われている。それは、新橋アスレチッククラブと駒場にある農学校(農科大学を経て後に帝国大学に吸収される)だった。その4年後には初の対校試合、工部大学対波羅大学が行われている。初の対校試合までの期間がとても長いのが気になるが、記録としてはこれが最も古いものである。対校試合の最古を工部大学対立教大学とする記事も発見したが、時期が明確に記されていないかった。また、対校試合のつもりで集まってみたものの立教チームが人数不足で教員を参加させようとしたため、対校形式を改めて両校を混ぜ合わせて紅白戦になったということである(『日本野球史』国民新聞運動部編を参考)。

 新橋アスレチッククラブはベースボールの先駆者として多くの学校の相手をしたが、学生は手も足も出ないので、やがて教えを受けるような師弟の関係になった。慶應義塾をはじめ多くの学校が知識、技術を吸収していったなか、愛媛から上京していた正岡子規も参加していた。子規は俳人、詩人として知られるが、ベースボールをこよなく愛したことでも有名である。


※正岡子規
=松山中学(現松山東高校)を中退し、上京、1884年に18歳で大学予備門に入学し、結核発病後文学を目指した。予備門入学以前より下宿先の主人と平岡が知り合いであったことからベースボールに親しみ、後に熱狂的虜になる。子規の幼名は昇(のぼる)であったため、号として「野球(の・たま=の・ボール)」を使っていたことは知られているが、これはベースボールの訳語としてではない。しばしば、ベースボールを野球と訳したのは子規であるといわれるが、それは誤りである。というのも、子規本人が、ベースボールに適当な邦訳がないことを新聞紙上に書いているからである。

 このように、当時球界をリードしていた新橋アスレチッククラブであったが、最初の呼びかけ人である平岡が退職すると惜しいことにチームは解散してしまった。ここに、ベースボールの歴史を見るうえでの一つの区切りができたといえる。なぜならば、この後は学生がベースボールの中心的な存在となり、「野球」が生まれるからである。ベースボールと野球に差があるのか、という問いもあるとは思うが、全くないといえばしっくりこないと多くの人も感じているだろう。

 さて、新橋アスレチッククラブの時代にはきちんとした記録もとられるようになり、試合によってはその内容も辿ることができるようである。また、ある程度の統一ルールで試合が行われるようにもなっているので、その確認をしておこう。今のルールとは違う部分が多いからである。

 人数は開成学校で行われた頃から既に9人であった。ポジションもc,p,s,1st,2d,3d,r,ce,lとあるからこれは恐らくキャッチャー、ピッチャー、ショート、ファースト、セカンド、サード、ライト、センター、レフトを指しているものと思われる。この点は現代の野球と同じである。そして、現代の野球ならば、プレイボールの掛け声の後、直ちに投手がボールを投げるが、当時はそのようなことはなかった。まず、ストライクゾーンを打者が決定するのである。これは今と大きく違う。ストライクゾーンを決めるといっても適当に決めて良いのではなく、hight(打者の目と胸の間)、faiv(打者の胸と腰の間)、low(打者の腰と膝の間)の中から選択する。選択されたコースのみがストライクゾーンとされ、投手は下手(したて)でそのゾーンを目がけて投げていた。四球はなく、9球ボールになった場合に今日の四球のように出塁した。捕手は打者の遠く後ろに構えていてワンバウンドした後に捕球するので、審判は打者と捕手の間から少し横にずれたところでジャッジをしていた。

 この当時は米国でもニューヨーク式のベースボールが完成して数十年しか経っておらず、本国でもしばしばルール改正がなされていた。それを受けて、日本でも新橋アスレチッククラブを中心に研究に余念がなかったから、当然、少し遅れてはあるがルールの改正を行っていった。「少し遅れて」といっても飛行機などない時代、船舶での行き来も苦労する時代であったから、1〜2年の遅れは「直ちに」と表現しても間違えではないかもしれない。ストライクゾーンの3区分制が廃止になったのはアメリカで1887年、日本1889年、四球で出塁になったのはアメリカで1889年、日本1891年である。

 二・二 一高時代前夜
 さて、新橋アスレチッククラブ廃部の後いよいよ名実ともに一高を中心とした時代が訪れた。ここで一高の性格を知っておくことが重要になってくるので少し脱線気味ではあるが旧制高等学校のことにふれておこう。

 旧制高校や帝国大学など高等教育学歴を有するものは明治前半には同年齢人口の0.4%、今日(1997年)高専、専門学校、大学、短大などの高等教育学歴を有するものは同年齢人口の67%。この数字でとても貴重な存在であることがわかるだろう。また、旧制高校の入学者はほぼ全員が帝国大学に進むことが約束されていたから日本の将来を背負って立つ人間であったといえる。そして、このエリート達は時代とともに性格も変化するが、自分達が国を背負って立つという誇り、自信をどの時代の旧制高校生よりももっていたのがこのころの高校生である。

 では、ここで再びベースボールの話題に戻る。ベースボールが日本に伝わり、エリート一高生が得意げにプレーしていたことは前述の通りであるが1883年前後に多くの学校に野球部のような組織ができていたのだから、別に一高だけがベースボールをしていたのではない。むしろ、第一高等中学校ベースボール会の原型が発足するのは1884年だから一高が野球部のような組織を持ったのは他校とほぼ同時期といえる。

 一高ベースボール会の記録として残る最も古い対校試合は1888年の対農学校戦である。このときは31対14で一高は惨敗している。当時国立の学校は広い敷地を有していたので一高、工部大学、農学校などが練習環境に優れており、技術的には私立学校よりも上手だったようだ。農学校も広い練習場を有していたので、黄金時代突入前の一高が負けてもさほど不思議ではなかった。しかし、農学校に惨敗することで部員が極端に減ったと伝えられている。1890年に一高は向ヶ丘へ移転し、広いグラウンドが造られ、ベースボール熱に再び火がつく。こうして一高も練習環境にさらに恵まれ、その他の事情もあいまって急速に実力をつけた。


※一高が力をつけた「その他の事情」
=校舎移転に伴い学寮が造られ、登校時間が極めて短くなった。これによりベースボールだけでなく様々な高校生活に時間的なゆとりが生じたし、一高生としての自覚、団結が一層強まった。また、後に紹介するインブリー事件と時代が前後するが1890年10月に「文武の諸技芸を奨励する為」に校友会が発足し、文芸、ボート、撃剣、柔道、弓術、ロンテニス、陸上競技などの部とともにベースボール部も学校公認団体となり、経済的に支援されることとなった。これらはベースボールに限るわけでなく、一高の文化を支える重要なものとなっていたと想像できる。

 この1890年からは多くの資料が残っているが、中でも一高の強いエリート意識の表れとして注目に値し、野球の歴史を扱うすべての書物に必ず登場するのが「インブリー事件」である。

 当時、一高、工部大学、農学校などの国立学校と唯一互角と目されていたのが白金倶楽部こと波羅大学であった。波羅大学はキリスト教の思想がある学校だったのでアメリカ人教師が多かったし、教育に於いて西洋的なものが多かったといわれている。ベースボールはエール大学で選手経験があるアメリカ人教師マグネヤの指導や横浜外人との交流で実力をつけていたのである。しかし、農学校には敗れていた。その農学校へ雪辱を挑む前に一高との試合を試みたのが1890年5月(2日・17日いずれの説もある)であった。この試合は事件勃発前から「西洋教育を受けたキリスト教徒対和魂洋才を目指す日本一のエリート」という対立構造にあったのである。

 午後1時、向ヶ丘一高グラウンドにて試合開始、柔道場で大会もあり、試合を終えた柔道部員や寮から出てきた一高生が試合を見た。6回終了時点で波羅大学が6点のリード、その頃波羅大学で教師をしていたウィリアム・インブリー氏が垣根を飛び越えてグラウンドに入ってきた。インブリー博士も学校に門があることは知っていたから当然正門から入ろうと試みたのだが、守衛は英語を理解できなかった。裏門でも同様の扱いだったのでやむなく垣根を飛び越えたのである。しかし、博士は気付いていなかったが、最悪のタイミングに最悪の行為をしてしまったのである。最悪のタイミングとは無論、一高が押され気味の試合展開であり、最悪の行為とは垣根を飛び越えることである。

 旧制高校は寮自治を誇りとしていたが、当時既に学内と学外に境界を引くものとして垣根を非常に重要なものと捉えており、一高は正門主義(名からすると正門を大切にするようだが、そうではなく正門以外の出入りを禁止しているもの)を貫いていた。他の高校も大体同じであり、松山高校の相原正一郎教授も「門というのは出入りするように決められたところだから、閉まっていてもよじ登って中へ入ってもよい。そのかわり生垣は破れていても通ってはいけない」といっている。このことについて既出の『真説 日本野球史 明治篇』で『一高魂物語』から以下の文が引用されているので紹介しよう。

「向陵の垣根! おおこの垣根。彼等一高健児にとってはただの垣根ではない。世のすべての垣根はただ地域を割し、隣と分つ単なる一境界標に過ぎぬかも知れぬ。往来と邸宅を区割する記号として垣根は在るかも知れぬ。然し、一高にとってはこの垣根は単なる地域境界のしるしではない! おおそれこそ彼等の魂の垣根なのであった。精神の高貴なる道場として俗塵の世と分かつべく割されたる心霊の垣根であった

 垣根は粗であるかも知れない。<中略>一高は血を流してもこの垣根を?つものとは抗争せねばならぬ。実にや、彼等が深更門限後に帰寮することもあるも、正門はいつでも飛び越え、乗り越えてもかまわぬけれども垣根を越えて帰ることは断じて、断じて許されぬのである」(『一高魂物語』より)

 一高がベースボールで苦境に立ち、柔道部以下の全応援団が殺気立っているときにインブリー博士は最も神聖なものを、長い足でいとも容易く飛び越えた。これでは、エリート一高生が激怒するのも理解できないわけではない。暫くの問答の後、一高生は石を振り上げ、インブリー博士に襲い掛かった(殴ったとも投石したともいわれる)。インブリー博士は大量の出血をし、ベースボールの試合もストップし、その日はそのまま喧嘩別れとなった。

 この当時は不平等条約の時代であったから、この問題を放置すれば国際問題になることが予想された。実際に国際問題になりかけたものの、外務省、一高校長などが奔走し、インブリー博士もそれほど怒っていなかったことが幸いして何とかことは丸く収まった。

 これが世にいうインブリー事件の概要である。この事件をきっかけに一高ではベースボールを遊びと捉えなくなっていく。まず、外国人やその影響を強く受けている波羅大学などには決して負けてはならない、波羅大学には必勝でなければならぬ、というムードが生まれてくる。これは波羅大学に敗れかかり、彼らのエリート意識に火がついたものといえるだろう。また、一高の正門主義を破戒して暴力事件になったのであるから、一高ベースボール会でなく、一高の問題であった。そういった考えから次第にベースボールを単なる部活動ではなく、一高全体のものとして捉えるようになっていく。当時は武道が中心だったのだから、集団で行う数少ないスポーツ=ベースボールは選手だけでなく、応援団も参加者とするムードが出てきたとも考えられる。ともあれ、「打倒外国勢力」と「学校の面子をかけた戦い」の2つの思想が一高に芽生えた。


※「一高魂物語」
=一高受験希望者に対し配布されたPR誌。そのため、一高にとってマイナスなことはあまり書かれていない可能性があるが、当時の一高生の考えを知るには最も優れた資料の一つである。

※不平等条約
=日本は日米和親条約で片務的最恵国待遇、修好通商条約で領事裁判権(治外法権)、協定関税制(関税自主権の放棄)などを認めてしまった。明治以降はこれらの著しく不平等な条約を改正することが外交の重要課題とされた。

 二・三 一高野球、実の完成
 一高においてベースボールは校技(国技からつくった造語だと思われる)とされ、全学生で応援団を組織するまでに大きな存在となった。ベースボール会は打倒外国勢力、日本一の学校の面子を代表して任されたから、並々ならぬ練習をせねばならなくなった。まだ当時の一高生は西洋かぶれを軽蔑し、和魂洋才を目指していたから猛練習の中で武道的要素が現れてくることになる。その中でベースボールはもはや遊戯ではなく、勝利を追及し、勝利のためには如何なる努力も惜しんではならないものとなった。ベースボール自体、チームへの忠誠、個人の名誉、勇気など新渡戸稲造の言う武士道に通じやすい要素は多かったから、こういう思想に向かうのはごく自然の流れであったかもしれない。

 これらのことを佐山和夫氏は『ベースボールと日本野球』で次のように書いている。

「彼らは誰よりもまず、みずから自分達の社会における位置と使命を意識していた。折しも、中国との関係において、ますます国家意識が称揚されていた時代である。彼らはこの新しいスポーツに、新時代に向かう彼ら自身の気概を加えて、自分たちの新武道としていったのだ。」

 勝利至上主義は今日の野球において悪者呼ばわりされることもある。そこまで勝ちに拘らずに、もっと野球を楽しめば良い、アメリカではもっと楽しみながらやっている、と。プロ野球が野球報道の中心である今日、またはアメリカメジャーリーグを基準として考えた場合に批判が出ることは当然である。しかし、当時の一高は学校の面子をかけた命がけの戦いをしているつもりだったから、なんとしても勝たねばならなかった。


※新渡戸稲造
=国際連盟事務局次長で知られ、現在の五千円札の肖像になっている。野球に関しては後の章で紹介する「野球害毒論」の先陣を切ったし、この文章との関連では一章で紹介した札幌農学校の卒業生である。「武士道」を英語で著し、日本人の倫理観について諸外国に説明した。京大、東大で教授、一高で校長、東京女子大学で初代学長などを務めた。

※中国との関係(引用文内)
=1871年台湾出兵、1879年琉球処分など領土をめぐり清との関係はギクシャクし始めていた

 そうして、猛練習を実践した一高はインブリー事件の和解が成立した後、再び因縁の対決を受けて立つことにした。1890年11月8日、前回と同じ向ヶ丘で波羅大学を向かえて試合を行うこととなる。このときに一高で二塁手をした中馬は後に「野球」という言葉を作り出す人物であった。試合は26対2で一高の勝利、この一戦だけはなんとしても勝たねばならなかったからベースボール会も応援団もとても喜んだ。

 因縁の対決に勝利したことが知られると溜池倶楽部から試合の申し込みがあった。溜池倶楽部は工部大学(東大の前身の一つ)の溜池グラウンドで練習するベースボールチームで、農学校、慶応義塾、高等商業学校(一橋大学の前身)などから実力のあるもの集まって構成されていた。ベースボール名門校の精鋭の集まったチームだから、当然最強と目されていた。この試合も一高は向ヶ丘のグラウンドで受けた。そして、地力で大きく差があるはずの溜池倶楽部を32対5と圧倒した。私はこの瞬間こそ一高黄金時代の幕開けだと考える(一般的には黄金時代はもう少し後のこととするようである)。なぜならば、まだ実力で及ばぬと思われるチームはあるものの、一高精神野球が技術的に上回るチームに圧勝したからである。

 私の持論では既に一高黄金時代に突入していることになるが、一般的には溜池倶楽部、波羅大学連合チームとの試合、あるいはもう少し後の横浜外人との試合をを基準とするようである。前者、連合チームとの試合についてであるが、溜池倶楽部も波羅大学も一高に負けて悔しかったので、今度は駒場の農学校校庭に一高を迎えて試合をしたいと申し込んだ。それに一高が応じ、1891年4月4日に世紀の大試合一高対溜池倶楽部波羅大学連合チームが行われることとなる。大和氏の説では各校ともチームの柱であるバッテリーばかりを推薦したため、溜池倶楽部のメンバーが守備に不向きであったためらしいが、しかし、そういった事情があるにせよ、とにもかくにも10対4で一高が勝利を収めた。

 これを以って、ほぼ一高時代の幕開けといってよいだろう。気が早く、自信過剰な一高生は、もはや日本国内に敵はなし、と究極の結論を早くも持ち出したというから驚きである。

 しかし、実は一高ベースボール会にとって「一高におけるベースボール会の位置」「日本のベースボールにおける一高の位置」の2点で、必ずしも満足できる立場には到達していなかった。当時の一高では、

@人気ナンバーワン競技はベースボールではなく、ボートであった
A1890年発布の教育勅語を背景としてベースボールよりも撃剣(剣道)が優れているという主張がまかり通っていた

など、ベースボール会に不利なこともあったわけだが、そこは黄金時代である、これらの課題もクリアされていく。詳しくは今後のバージョンアップ時に書き加えるが、取り敢えず紹介だけでもしておこう。@の大きな要因だった、一高と高等商業の対抗戦は学生の熱狂が引き金となり1890年に中止となった(1896年に復活している)。この中止を受けてなお、ボートの人気は依然高いものではあったが、対校試合が行われないことで、学校の名誉をかけた戦いではなくなった。これによりベースボールが、唯一学校の名誉をかけた対校戦を行う団体となり、注目が集まるようになる。

 Aは現在、客観的に見れば、古参の武道が新参の外来スポーツを区別化しようとしているだけのことで、たいした問題ではなさそうであるが、中馬はひどく怒り、この主張に反論する記事を学内の雑誌に掲載した。幾度か論戦があった後、結論の出ないままに論争は終わるが、学校公認のベースボール会がこれで大きな痛手を負うことはなかった。

 次に、「日本のベースボールにおける一高の位置」に注目してみる。これは、日本人チームに敵はなし、というだけであり、日本国内にいる外国人(本場のアメリカ人)にはまだまだかなわないというのが大方の見方だったということである。

【野球の普及後半】につづく


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