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3.早慶戦

 三・一 第一回早慶戦
 21世紀もなお学生野球の華である早慶戦は1903年(明治36年)11月21日に第一回が行われた。当時の野球は久保田高行の論文「学生野球及び少年野球」によると

「明治二十年代の野球は、いわば草野球の程度で、捕手以外はグラブが無く、素手でボールを取り扱い、捕手は打者の遥か後方にいてワン・バウンドで投手の投球を受けるというやり方であったが、三十年代に入るとさすがに横浜外人や時たま日本を訪れる米国海軍の影響を受けて、形体を整えるようになった。」
というものと大差はなかったと思われる。

 早稲田は東京専門学校と称していた頃屋外スポーツは行われていないに等しかった。しかし、1901年に野球部を創設し、その2年後には「『当時最強であった一高』を破った学習院」に挑戦し、見事に勝ちを収めている。創部間もなくのころは狭く、傾斜のある、悪条件のグラウンドで練習をしていたため、中学生よりも弱かった野球部であった。ところが、前述の通りそれでも学習院に勝ちを収めている。これは東京専門学校が早稲田大学になったときに中学で名を馳せた選手が入学しただけでなく、商科の新設(1903年)でさらに多くの中卒者が高等予科に入学したからであった。こういったことから早稲田の野球部は、誕生からすぐに実力をつけていったのである。


※早稲田野球部誕生
=以下に早稲田大学野球部五十年史から「草創時代 野球部の発端」の一部を紹介する。
草創時代 野球部の発端

後年二万余の学徒を擁し、東洋一の大学を誇る早稲田も、其の古き歴史を繰り拡ぐるならば極めて微々たるものであった。明治三十四年と云えば、早稲田がまだ東京専門学校と呼ばれた時代である。
当時の校舎は煉瓦造ではあったが、一見貧弱なる講堂(大正十二年九月一日の地震のため崩壊)と汚れて狭苦しい教場とが僅かに三棟ばかり建並んでいたに過ぎない。
かかる状態であるから、運動に関する設備などは勿論完備している筈がない。只一つ亜鉛屋根の柔剣道場があるばかり――大正十二年春まで運動場外の一隅に、野球部倉庫と、銃器庫として残っていたものが、其の後身である――運動場は、早稲田中学体操場と云う棒杭の立られた所属不明瞭のものが、恰度、後年理工科教室の辺に、水稲荷と地続きなって存在していたが、野球の庭球のと云う、戸外の運動は其の頃の専門学校には採用されていなかった。
こうした有様であるから、誰一人この運動場でボールを遊ぶ者などはなかったのである。然るに三十四年大学と改称する準備として募集された高等予科の新入生は、今までの在学生とは違って、年も若く、大概中学を卒業して来たのであるから、兎も角いくらか新空気に触れている訳である。此等の新入生の中には戸外運動としての野球を是非共採用せんと窃かに奔走するものがあった。
この年入学した知名の選手には、郁文館中学校出身の大橋武太郎、青山学院出身の橋戸信を始め、各中学より多少経験のある選手が集まったから、ここに初めて野球部と名の付くようなものが成立した。
<中略>
人員は漸く揃ったが、何しろ創立されたばかりであるから、練習の規律もなければ、チームの統一もなく、頗る乱雑なものであった。顔こそ古いが、其の弱さはまた格別で、早稲田中学の少年等と戦い、毎度十余点の差で、敗北するところから、中学生は専門学校の弱助々々と呼んで冷笑した。

※学習院を破る=以下に早稲田大学野球部五十年史から「草創時代 学習院を破る」の一部を紹介する。
草創時代 学習院を破る

かくして三十四年の夏期休暇も過ぎた。秋季に入っては新選手も見つかり、多少勢力も増したので、適当の対手を物色した。中学生相手では幅が利かない。一つ手近な学習院をと云うところから、挑戦状を発した。
今まで東京専門学校に野球部があろうなどとは、学習院で知ろう筈がない、申込まれたから応諾してやろう位の軽い調子で、応戦の返事が来た。
<中略>
この一戦は仰早稲田の野球部なるものが、中学以外の高等の学校と、対校試合を行った最初のもので、早稲田野球部の存在を世間に知らしめたのである。
実に学習院一蹴の壮挙は、後年早稲田の大を成す遠因を形造ったものと云わねばなるまい。


 一方の慶応義塾は1883年前後の一回目の野球部創設ラッシュ(私の造語)ですでに誕生していたからおよそ20年の差がある。グラウンドが広くなかったともいわれているが、そこは歴史の有った野球部、慶応義塾が一枚上手と評判だったようだ。

 早稲田は学習院の後横浜外人クラブも破り、勢いにのる。そして、一高には挑まず、私学の先輩であった慶応に試合を申し込んだ。

早稲田からの書状
 「拝啓士候 陳者貴部益隆盛
之段斯道の為め奉賀候弊部
依然として不振、従ふて選手皆
幼稚を免れす候に就ては近日の中
御教示にあづかり 以て大いに学ぶ
所あらば素志此上も無く候
貴部の御都合は如何に候ふべき哉
勝手ながら大至急御返翰被下度
御承知の上は委員を指向け
グラウンド、審判官の事など万々
打合わせ仕るべく此段得貴意候也
早稲田大学野球部
十一月五日
委員拝
慶応義塾野球部
委員御中」

(書状は現在でも慶応義塾大学福沢研究センターにあるらしい)

慶応義塾からの返信
 「拝啓
秋気相催し候所  益大に御練習之
御事と推察いたし候  依而貴校と当校
とは是非共マッチ  を致す可き者と啻に
門外漢之風評  のみならず当方の弥次
連も非常に希望  致し居り候様子ニ
御座候へ共兎角  申込云々の角立ち
たること有之候為め  幹事乃内にも之ニ
決しかね居る向も  有之候様子とすれば
此際御校にて御  申込相成候はゝ゛直に
成立可致候此頃は  丁度よき時節ニ候ヘバ
此期をはずしては正に  互方に此後益々
都合悪しく相成申可く候  と存せられ候小生
なとは貴兄乃対手  となるなと乃変んな者
と存し居り候へ共  然し仕合ハ是非いたし
度心掛居り候  御校之御様子ハ
如何にや双方議  熟して戦ふと云ふ風
至極おもしろしと存候  御校さへよろしく候
へば当方は小生  より申出で幹事
連へも勧告致し  見る覚悟に候間
御一報煩わし度候
先は右迄
如斬ニ御座候
敬具
十一月八日
夜八時半
高浜徳一
泉谷祐勝様  机上へ」

(書状は現在でも野球体育博物館にあるらしい)

慶応は当時学習院ともめて試合相手を失っており、丁度このような機会を待っていたのだ(当時最強の一高と試合をするときには不利な条件も受け入れねばならなかった)。

そして、前述の通り11月21日に試合が行われた(電車は一部区間しか開通しておらず使えなかったし、人力車などは学生に乗れる代物ではなく、早稲田の学生は戸塚から三田まで徒歩で向かったといわれている)。審判は球界を仕切っていた一高の主将黒田昌恵であった。試合は慶応が勝利を収め(詳しい結果は時事が伝えている記事を資料として載せているのでそちらをご覧頂きたい)、その後の懇親会で互いの健闘をたたえあい、以後は定期的に試合を行うことを約束した。

これが、華の早慶戦の興りであった(現在は聞かないが当時は「ケンブリッヂとオックスフォードの対校戦と並ぶ」と称されていた)。

翌年の6月には約束どおり第二回早慶戦が行われることになったが、事件はその前におきた。6月1日に早稲田は9対6で時の王者一高に勝ち、翌2日には慶応が11対10で同じく一高に勝った。これは長く学生野球界に君臨してきた一高に単に勝ったのではなく、早慶戦がまさに「日本一決定戦」となったことをも意味する。実際、早慶戦の審判をすることになっていた学習院の主将新庄直知はその責任の重大さを感じ、前日は徹夜でルールブックを読み直し、当日は純白の制服を纏ったうえ、学習院野球部全員を引き連れて会場入りしたといわれている(時事による慶応が一高に勝った試合の記事はこちら/約一ヶ月後の新聞で一高は言い訳をしている、それはこちら)。

これで、早慶戦は第二回目にして名実共に日本を代表する対校戦となった。

そして、迎えた第二回早慶戦は序盤リードしていた慶応に逆転する形で早稲田が勝利し、前回の雪辱を晴らすこととなった。

第三回戦に向け、両校夏休みなど返上で練習をするわけであったが、早稲田には格別に勝ちたい念があったと思う。なぜならば、早稲田の部長安部磯雄が勝って日本一になれば渡米をすると宣言していたからである。当時、学生の渡米などはそうそうできるものではなかったが安部はどういう気持ちからこのような提案をしたのだろうか、疑問である。単に学生の士気を高めるためなのか、それとも安部自身、勝てると思っていなかったのか。

夏を越え、迎えた第三回戦は早稲田が勝利を収め、翌春の渡米を学校から許可された。

つづき製作中


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